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呂雉の編集履歴2023/08/06 17:44:50 版
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概要

生い立ち

単父(山東省)の名士・呂公の娘として生まれた。ある時、父の呂公が宴を催していたところ、「オレの手土産は一万銭だぜ」とハッタリを言いながらやって来た劉邦と出会った。父の呂公が彼を気に入ったことから劉邦に嫁ぐこととなる。また、劉邦の舎弟兼友人である樊噲も気に入られ、妹の呂嬃が彼に嫁いでいる。

その時、呂雉は占い師から「貴婦人の相がある」と言われたり、山奥へ逃げた劉邦の行先が分かったりと不思議な現象が起きていた。その後、劉邦との間に息子の劉盈(のちの恵帝)と娘の魯元公主を産んだ。項羽との戦いが起きた際に劉邦の父と呂雉は捕虜になってしまうが、紀元前203年に両者との和解が成立して無事に夫と再会した。

若妻時代の呂雉は、劉邦の実家の家事・農業手伝いや甘えたい盛りな二人の子供の育児、更には男気はあれどゴロツキの問題児だった劉邦の起こすトラブルの尻拭いに奔走させられる過酷な生活を強いられ、劉邦の代わりに牢獄にブチ込まれたことさえあった。このような中でも夫を見捨てることなく信じ、後に挙兵して中国全土を転戦するようになった後でも必死に支え続け、劉邦の留守を預かり続けた。その様は正しく良妻賢母の鑑であった。

女の復讐

翌年の紀元前202年、劉邦の即位と共に呂雉は皇后となり、子供達も皇族として名誉ある地位が与えられたが、脅威が迫っていた。劉邦の愛人である戚夫人が、我が子・劉如意を次期皇帝にすべく工作をしていた。我が子を守ろうと呂雉は奮起し、張良の進言が決め手となり劉盈を皇太子にした。しかし戚夫人一派は呂氏一派の樊噲を標的にして讒言しそれを真に受けた劉邦の命で処刑されかかる事件が発生する。これらもあり憎しみはさらに増した。

紀元前195年に劉邦が崩御すると劉盈が恵帝として即位し、呂雉は皇太后になって体制強化と言う名の粛清に乗り出した。劉邦の長男・劉肥は領土返上と、弟の恵帝に助けられて処罰を逃れたが、戚夫人と劉如意は悲惨な末路を迎えた。

如意は兄の帝がいなくなった隙に呂雉に毒殺され、戚夫人は四肢を切断された上に視覚と聴覚、声を奪われてから、人彘(じんてい。人豚)と称して厠に放り込むと言う残忍な方法で処刑された。特に後者を見せられた恵帝は、トラウマの余り政務を放棄して酒色にふけってしまった。それから程なくして、恵帝は23歳(もしくは26歳)で崩御した。

呂氏政権の盛衰と呂氏の乱

我が子と帝国を守ろうとした呂雉だったが、皮肉にも愛息恵帝を20代の若さで失うこととなった。それ以降、劉邦の庶子を粛清させたり、自分の一族を朝廷の要職に付けるなど暴走していく。彼女は紀元前180年に亡くなる時も兵権を甥の呂産や呂禄など一族に握らせることで帝国の安泰を図り、一門の繁栄を望んでいた。

漢帝国を粛清による恐怖で締め上げた呂后であったが、内政には優れた手腕を発揮した辣腕政治家であった。彼女が実権を握っていた時代には貧した民衆による反乱なども起きず、国内は平和に治められていた。呂后の専横がまかり通ったのも、彼女自身が優れた政治家であったという点が大きかったのである。

しかし呂雉亡きあと、陳平周勃・陸賈ら劉氏の忠臣たちは呂氏誅滅の機を窺っていたが、劉肥の子の斉王・劉襄は弟で都にいた劉章からの注進もあり呂氏誅滅を名目に挙兵。鎮圧に向かった灌嬰は反対に劉襄に気脈を通じる。追いつめられた呂産は帝位簒奪を狙い反乱を起こすが陳平・周勃らも亡き恵帝の弟・文帝劉恒を擁立しクーデターを引き起こす。その結果、呂産・呂禄・呂嬃ら呂雉の遺族は全員討たれたり処刑された。ちなみに味方するという意味である「左袒」という言葉はこの時の周勃の発言が元である。

評価、逸話など

  • 夫の死後に権勢をほしいままにした事や戚夫人と如意への仕打ち、息子の皇帝まで病死に追い込んだことなどから評価は決して高くはない。男尊女卑的な風潮が強い中国では「朝廷の実権を握り、男性の皇帝や王を圧迫した女」と言うことから、現在も妲己武則天西太后と相並んで中国三大悪女のひとりとして扱われている。
  • 史記を記した司馬遷は、呂雉が起こした問題を厳しく非難し、「天下に隠れもない悪逆」と断じる一方で、彼女が権力を握った時期は善政が敷かれて民衆が平和に暮らしたことを記録し、その手腕を称えてもいる。また、同書に本紀(帝王一代の事績)を設けられるほどの存在として記されるなど、重く見られてもいた。
  • 残虐な殺し方や陰謀を駆使したことで悪名高い呂雉だが、その事例を記録した歴史書を編纂したのが呂氏政権を征伐した漢王朝であるため、漢を正当化するために悪事を誇張化されたとも言われている。人彘事件が記されている史記も、呂氏を倒した漢の歴史書である。
  • 劉邦を窮地に立たせた匈奴(モンゴル)の英雄である冒頓単于からあるとき「旦那さんが亡くなって寂しくないか?オレの所に嫁に来いよ」と書かれた親書を送られた。無礼な物言いに怒った呂后は匈奴に戦を仕掛けようかと本気で考えたが周囲に止められ、しぶしぶ「私は歳なので遠慮します」と断りの手紙を書いた。漢帝国に敵対意志があるかどうか確かめる意味合いがあったとも、未亡人の嫁ぎ先を世話することが大事とされる匈奴の価値観に沿っただけで単于に悪意は無かったとも言われているが、単于の真意は不明である。ちなみに単于は「失礼なこと書いて正直スマンかった」とお詫びの手紙を書いている。

関連タグ

劉邦  史記 悪女 女傑

妲己武則天西太后:呂雉とあわせて中国三大悪女と称される。ただし、妲己は伝説面もある。

アグリッピナアリエノール:問題のあった夫や息子に替わって国政を行い、辣腕を振るった妃つながり。

持統天皇:夫の天武天皇を劉邦、自らを呂雉になぞらえたと言われる。我が子のライバルとなった皇子を滅ぼした点も共通する。

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