ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴
伴善男の編集履歴2023/11/01 22:32:03 版
編集者:ふーたん
編集内容:記事を編集

経歴

校書殿から善愷訴訟事件まで

弘仁2年(811年)に誕生、校書殿の役人となり後の承和8年(841年)に大内記となる。蔵人・式部大丞となり承和10年(843年)に従五位下、右少弁となる。承和13年(846年)に善愷が訴訟を起こすが右大弁正躬王弁官5人が不正を行った事を糾弾し翌年の承和14年(847年)に事件は終息した。(善愷訴訟事件

応天門の変

嘉祥元年(848年)に参議となり右衛門督検非違使別当・中宮大夫となり貞観2年(860年)に中納言、貞観6年(864年)に大納言となる。貞観8年(866年)に応天門が焼失され左大臣源信が犯人と訴えた。結果信は無実となるが後に善男・中庸親子が犯人として捕らえられ善男は伊豆国へと流され貞観10年(868年)に死去した。(応天門の変

人物

狡猾であったが才知と弁舌に優れていたとされる。ちなみに曾祖父や祖父は謀反の疑いを掛けられ非業の死は遂げ、父も流罪にされながらも善男自身は大伴氏では大伴旅人以来となる大納言にまで昇ったことからして才知に優れていたのは確かと思われる。

外部リンク

伴善男 - Wikipedia

関連記事

親記事

伴善男の編集履歴2023/11/01 22:32:03 版
編集者:ふーたん
編集内容:記事を編集
伴善男の編集履歴2023/11/01 22:32:03 版