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伴善男の編集履歴

2023-11-02 12:40:43 バージョン

伴善男

とものよしお

伴善男とは平安時代初期の公卿。一説には大伴家持の従弟とされる大伴古麻呂の曾孫。源信を失脚させようとしたがあべこべに藤原良房に失脚させられた(応天門の変)。

概要

伴国道の五男。

官位は正三位大納言、別名は伴大納言

大伴古麻呂の曾孫で大伴継人の孫。

経歴

誕生前から善愷訴訟事件まで

善男が生まれる前、大伴氏は藤原種継暗殺事件に関与した祖父の継人は処刑され、父の国道は佐渡に、本家筋の家持の息子である永主は隠岐に配流され、すでに死去していた家持までも官位を剥奪されるなどの苦難に遭った。

善男は弘仁2年(811年)に誕生、最初は校書殿の役人となり後の承和8年(841年)に大内記となる。蔵人・式部大丞となり承和10年(843年)に従五位下、右少弁となる。承和13年(846年)に善愷が訴訟を起こすが右大弁正躬王弁官5人が不正を行った事を糾弾し翌年の承和14年(847年)に事件は終息した。(善愷訴訟事件


応天門の変

嘉祥元年(848年)に参議となり右衛門督検非違使別当・中宮大夫となり貞観2年(860年)に中納言、貞観6年(864年)に大納言となる。貞観8年(866年)に応天門が焼失され左大臣源信が犯人と訴えた。結果信は無実となるが、今度は藤原良房の策もあり後に善男・中庸親子が犯人として捕らえられ善男は伊豆国へと流され貞観10年(868年)に享年58で死去した(応天門の変)。

伴氏はその後、善男の孫である春雄が従五位安芸守になり子の保平は諸国の国司を歴任し最終的には従三位参議に昇った。しかし保平を最後に朝廷で顕官ところか地方の国司に就く人物さえも現れず、子孫は朝廷の地下官人や地方の在庁官人に甘んじることになる。


人物

狡猾であったが才知と弁舌に優れていたとされる。ちなみに曾祖父や祖父は謀反の疑いを掛けられ非業の死は遂げ、父も流罪にされたため普通は出世は望むべくもない状況だが、善男は大伴氏では旅人以来となる大納言にまで昇ったことからして才知に優れていたのは確かと思われる。


外部リンク

伴善男 - Wikipedia


関連タグ

平安時代 大伴氏 応天門の変

大伴古麻呂…曾祖父

大伴継人…祖父

大伴旅人大伴家持…本流の当主たち

源信藤原良房…政敵

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