ハイペリオン(競走馬)
はいぺりおん
概要
主な勝ち鞍はダービーステークス(1933年)、セントレジャーステークス(1933年)など。
種牡馬としてはイギリスで計6回のリーディングサイアーに輝いた。
略歴
1930年
4月18日、第17代ダービー伯爵(エドワード・ジョージ・ヴィリアーズ・スタンリー)が所有するサイドヒルスタッド(ニューマーケット)で誕生。
父・ゲインズバラはイギリスクラシック三冠馬で、日本では下総御料牧場に種牡馬として輸入されたトウルヌソルの父として知られる。
母・シリーンは現役時代に22戦16勝。ハイペリオン以外にもシックル、ファラモンドを輩出し、20世紀最大の影響力を持つ繁殖牝馬と呼ばれる。
非常に小柄でダービー伯爵も期待していなかったが、サイドヒルスタッドを訪れたジョージ・ラムトン調教師は「この小さな馬はいずれダービーを勝つでしょう」と予言し、競走年齢に達したら自分に任せてほしいと頼んだ。
1931年
ラムトン師の厩舎(ニューマーケット)に入厩。
ハイペリオンはおとなしいが非常に頑固だった。調教でも納得いかないと走ろうとしなかったがラムトン師は根気よく待ち、ハイペリオンもラムトン師を信頼し素直に指示に従うようになっていった。
1932年
5月27日、ドンカスター競馬場のゼトランドメイドンプレート(芝5ハロン)でデビュー。アイデッタの4着に敗れた。
6月16日、アスコット競馬場のニューステークスに出走し、コースレコードで初勝利を飾る。
7月28日、グッドウッド競馬場のプリンスオブウェールズステークスに出走。ステアウェイと激戦の末、1着同着。
9月28日、ニューマーケット競馬場のボスコーエンステークスに出走し、マニトバの3着に敗れた。
10月27日、ニューマーケット競馬場のデューハーストステークスに出走。最後方からの追い込みで1着。
1933年
調整が遅れ、4月26日の2000ギニーは回避となった。
5月2日、チェスター競馬場のチェスターヴァーズに出走し1着。
5月31日、エプソム競馬場のダービーステークスに出走。好位追走から抜け出し、コースレコードで1着。一躍イギリス競馬界のアイドルとなった。
6月13日、アスコット競馬場のプリンスオブウェールズステークス(2歳時のレースとは別)に出走し1着。しかし、131ポンドの斤量が堪えて後脚の膝骨を痛め、1戦使ってからセントレジャーステークスという予定が狂う。
9月13日、ぶっつけでドンカスター競馬場のセントレジャーステークスに出走し1着。再び脚を痛めたため休養に入る。
1934年
ラムトン師が高齢で体調を崩しがちになったためダービー伯爵は専属契約を解除し、ハイペリオンをゲインズバラを手掛けたカレッジ・リーダー師に任せる事にした。リーダー師は厳しい調教で躾けようとしたが、ハイペリオンは反発して言う事を聞かず、相性が悪かった。
5月3日、ニューマーケット競馬場のマーチステークスに出走。138ポンドの斤量が課せられたが首差で1着。
5月15日、ニューマーケット競馬場のバーウェルステークスに出走し1着。同じ斤量のキングサーモンに3/6馬身差まで迫られる辛勝だった。次走はコロネーションカップの予定だったが回避。
6月21日、アスコット競馬場のゴールドカップに出走し、フェリシテイションの3着に敗れた。
7月17日、ニューマーケット競馬場のダリンガムステークスに出走。142ポンドの斤量が堪えてケースネスの2着に敗れた。現役引退となる。
1935年
ダービー伯爵が所有するウッドランドスタッド(ニューマーケット)で種牡馬入りした。
6度(1940、1941、1942、1945、1946、1954)イギリスのリーディングサイアーになった。
1939年
第二次世界大戦が勃発。戦火を逃れてソーントンスタッド(ヨークシャー州)に疎開。
1945年
終戦後、ダービー伯爵が所有するプランテーションスタッド(ニューマーケット)に移動。
1948年
ウッドランドスタッドに戻った。
1959年
種牡馬を引退。
1960年
12月9日、安楽死の措置が執られた(30歳)。
遺骨は南ケンジントン博物館に寄贈された。