経歴
京都の三条邸で生まれる。転法輪三条家は清華七家の一つで、摂関家に次ぐ家柄であり極官は太政大臣。笛と装束の家として知られている。分家の三条西家には、当代随一の文化人として名高い三条西実隆がいる。駿河国の今川氏の仲介で天文5年(1536年)7月、武田信玄に嫁ぐ。
義信、黄梅院、信親、信之、見性院と、信玄との間に次々と3男2女をもうける。武田家の近習衆のなかには警護等を務めていたと思われる御料人衆がおり、五味新右衛門をはじめ10人が付けられている。
信親が先天的に、もしくは幼年期に失明
1551年(天文20年)父の三条公頼が大寧寺の変において陶晴賢の反乱に巻き込まれ殺害
1553年(天文22年)頃に信之が夭折
1565年(永禄8年)義信が謀反に関わったとされ、東光寺に幽閉されて翌々年死去
(病死説や自害説等あるが「真田丸」の時代考証を担当した黒田基樹教授によれば病死とされる)
1569年(永禄12年)黄梅院が小田原城にて死去
(近年の論文にて、氏政と離縁し出家したとする話は事実ではなく
北条に残り小田原城で最期を過ごし、亡くなったとされる(推測によれば病死))
など、度重なる不運に見舞われた。元亀元年(1570年)7月28日に死去、享年50。
墓所は甲府市の円光院。
快川和尚(快川紹喜)の円光院諸導師葬儀記録によれば
三条の方の人柄を称賛する「大変にお美しく、仏への信仰が篤く、周りにいる人々を包み込む、春の陽光のように温かくておだやかなお人柄で、信玄さまとの夫婦仲も、むつまじいご様子でした」と記されたものが残されている。
戦国大戦において
武田家の武将として参戦。
ゲーム上でも、記録にある「おだやかな人柄」が前面に押し出されており、さらに山城(京都府)出身なためか、『はんなりいきましょか』(開戦前)や、『よろしゅう頼みます』(虎口攻め時)など、かなりゆるめな京言葉の台詞が特徴。
このゆるい京言葉は妹であり、本願寺顕如に嫁いだ如春尼にも共通する。
スペックは、コスト1 武力2/統率4の槍足軽で、特技は「魅力」。
コスト1の槍足軽としては、娘の黄梅院とともに武田の低コスト帯を支える一人。
持ち計略の「撹乱の術」は、範囲内に入っている敵軍武将の統率力を一時的に落とす計略。
相手の計略時間を減少させる。終わり際の攻防において統率差で敵を弾いたりと、適切に使えば強力な一手となるだろう。
特に武田家には、火牛と呼ばれる範囲内の敵に対して自身よりも統率が低い程ダメージを与える計略を持つ 真田幸隆や小畠虎盛、おつやの方等が所属する為、撹乱の術を先行して打てば、彼らの計略によるダメージを大きく上げることが出来る。
「はあ、ほんまに今日は
ええお天気どすな~」