概要
史実
中国北宋末期の徽宗の治世下で殿帥府太尉(所謂、軍の最高司令官のような立場)を勤めた。
冗談抜きで蹴鞠の才能で出世街道を切り開いた人物。
徽宗に蹴鞠を披露して気に入られて取り立てられ、その後にとんとん拍子に太尉にまで出世した。
だが、高俅は禁軍の最高指揮官である童貫と結託して軍政を握り、軍費を着服したり私利私欲で軍を動かしたりして権威を濫用していた。
1125年に金の太宗に開封(北宋の首都)を陥落させられた時、高俅は病に倒れ、翌年夏に自邸で逝去したとされる。
死後、既に処罰されていた佞臣の蔡京・童貫らと同様、官職を全て剥奪され、また開封が陥落した際は一族の官職及び家財も没収された。
なお、ここまでやっているにもかかわらず、史書などでは徽宗の時代の奸臣・佞臣の中では「さしたる功績は無い。悪事については、他の時代ならともかく、同じ時代にもっと酷いのがゴロゴロ居る」という小物扱いである。
また、若い頃に料理の東坡肉の考案者とされ詩人としても有名な政治家・官僚である蘇軾(蘇東坡)の部下だった為、蘇軾が中央の政争により失脚・左遷されていた頃に蘇軾の一族を支援していた、という意外なエピソードも有る。
水滸伝
『水滸伝』では、宋を牛耳る四姦臣(他は蔡京・童貫・楊戩)の筆頭格として扱われており、梁山泊が打倒を掲げる悪役の一人。
元々は「高二(こう じ)」という名のゴロツキで、ゴロツキ仲間と悪行を重ねていたが、当時の禁軍師範・王昇(王進の父)によって棒叩きの刑罰を喰らった過去を持つ。だが、彼は蹴鞠が非常に上手で、「高二」ではなく「高毬(こう きゅう)」と呼ばれていた。端王(徽宗)に蹴鞠の技を披露したことで彼に惚れ込まれ、側に仕えるようになる。そして、端王が皇帝に即位すると共に取り立てられ、太尉にまで昇格した(ついでに、名前も「高俅」に改名した)。
絶大な権力を手にした高俅は、彼の一族ともども権力を濫用し、棒叩きの恨みで王昇の息子で禁軍師範・王進に報復(王昇は太尉就任時にはすでに死んでいる)を目論んだり、養子の高衙内が禁軍師範・林冲の妻に横恋慕すると林冲を冤罪に陥れていた。一方、花石綱(造園のための材料)の運搬任務を失敗して逃亡した上に大赦が出たことでのこのこと戻ってきて復職を懇願した楊志に対し、その無責任で身勝手な態度に激怒して復職を一蹴するなど、まともな一面もある。
従弟の高廉が宋江ら梁山泊によって殺されると、敵討ちのために徽宗に梁山泊討伐を上奏し、指揮官に呼延灼を推薦して討伐軍を向かわせる。
徽宗が梁山泊を招安しようと考えると、高俅は頑なに反対して梁山泊の招安を何度も妨害したり、自ら朝廷軍を率いて何度も梁山泊軍と戦うが悉く敗れて一度は捕らわれてしまう。最終的に梁山泊と通じていた妓女・李師師に篭絡された徽宗によって梁山泊は招安されて官軍となってしまう。だが、高俅ら四姦臣は侵攻してきた遼国や各地で蜂起した田虎・王慶・方臘の反乱軍を鎮圧のために厄介払いもかねて梁山泊軍を差し向けることにし、遼国戦から王慶討伐までの梁山泊の戦功をもみ消し、何も恩賞を与えなかった。最後の方臘討伐で、梁山泊の大半の頭領達が死亡するものの見事鎮圧した上に今までの戦功による恩賞を与えていなかったことがバレて徽宗に叱責されたため、宋江ら生き残った梁山泊軍に恩賞を与えざる得なかった。
だが、高俅は宋江らが再び自分達の脅威となることを恐れて暗殺を企て、宋江と盧俊義を毒殺することに成功するが、それを徽宗にバレてしまう。激怒した徽宗に責められるが、他の奸臣達に宥められて叱責を受けるだけという軽い罰で許された。
典型的な悪役でありながら、特に因果応報を受けることなく物語を最後まで無事に生き残るという珍しい存在であったが、水滸伝の続編ともいえる『水滸後伝』では、その後に何か大きな失態を犯して失脚しており、流浪の末に梁山泊の残党に遭遇してしまい、宋江達と同じように彼らに毒を盛られて殺されるという末路を辿っている。