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バヤズィト1世の編集履歴

2024-08-22 23:05:38 バージョン

バヤズィト1世

ばやじっといっせい

バヤズィト1世とは、オスマン帝国の第四代皇帝である。その快進撃と悲劇的な最期で歴史に名を残した。

オスマン帝国第四代皇帝。バヤジットとも。

政治と軍事の両面で才能を発揮し、帝国の版図拡大に貢献した。

通称「雷帝(Yıldırım)」。


雷帝

若い頃から父や兄が暗殺されるのを見てきたためか、非常に猜疑心が強かった。即位と同時に弟たちを皆殺しにして権力争いの根を断つと、その軍才を十二分に発揮し始める。

手始めに「新帝は若造で与し易い」と侮った豪族たちの反乱を全滅。アナトリアの支配権を固めることに成功する。そのまま勇猛果敢なトルコ騎兵を率いてバルカン半島を荒らしまくり、帝国の版図を大いに広げた。特にキリスト教国に対しては無敵で、その強さと素早さのために国内外から「雷帝」と呼ばれ恐れられた。


敗北

そんな無敵の雷帝であったが、もっと強い…というか世界最強ティムールと自ら戦うという愚を犯し、皇帝でありながら捕虜になってしまった。元々バヤズィトを嫌っていた豪族たちは早々と逃げ去り、自慢のイェニチェリ軍団も度重なる遠征のために疲弊しきっていた。

そのまま国に還ることなく崩御。折しも身代金交渉の真っ最中であり、病死とも自殺とも、はたまた皇太子による謀殺とも言われる。


人気漫画化

この「にっくきオスマン皇帝がムスリムの内輪もめで死亡」という事件は欧州人にとって痛快だったらしく、バヤズィトがティムールに拷問されている滑稽画が数百年に渡り人気を博した。あまりに多く描かれたので、本当にバヤズィトがそうされたと信じている者が少なくないが、ティムール側の記録ではあくまで貴人として丁重な扱いを受けている。


しかし負けん気の強いバヤズィトは脱走未遂を起こしたため、最終的には風俗画ほど酷くはないものの足枷をつけられた。病死説ではこれが原因で痛風が悪化したとされている。


余談

  • オスマン帝国の公式な肖像画では再現されていないが、隻眼であったという。
  • 敬虔なムスリムでありながら大の酒豪であった。后にしたキリスト教徒の女性からワインの旨さを教わったためという。
  • 生前から自分の墓として立派なモスクを造っていたが、息子からは「国難の最中で忙しい」として顧みられず、簡素に埋葬された。後に改葬された霊廟も度重なる盗掘や地震で壊れるなど、死後も不運にみまわれた。現在はモスクも霊廟も旧跡として整備されている。
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