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源義賢の編集履歴

2024/08/27 19:45:09 版

編集者:ふーたん

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概要

源為義の次男。母は六条大夫重俊の娘。若い時に東宮帯刀先生(とうぐうたちはきのせんじょう)を務めていたことから、帯刀先生・多胡先生さらに略して先生と呼ばれた。

経歴

保延5年(1139年)、時の皇太子・体仁親王(のちの近衛天皇)を警護する帯刀の長となり東宮帯刀先生と呼ばれた。長兄の源義朝は当時無官のまま東国に下っていたため、この時点では為義の嫡男と言える立場にあった。

しかし翌保延6年(1140年)、滝口源備殺害事件に関与していたとして帯刀先生を解官され、嫡男の座を弟の源頼賢に譲らされた。

その後は父為義と共に藤原忠実頼長親子に仕え、康治2年(1142年)に頼長の領地である能登国の預所職に就いた。しかし、久安3年(1147年)に貢未納のため解任された。一方、義朝は[相模]]国鎌倉に本拠を構え南関東に地盤を築き関東の武士団を従え独自に力を付け上野国に勢力を持つ同族の新田義重足利義康矢田義清父子とも連携、仁平3年(1153年)には従五位下下野守となり官位でも為義を完全に凌駕した。為義は義朝に対抗すべく義賢を上野国多胡郡に送り、義賢は武蔵国の秩父重隆の娘婿となり同国比企郡大蔵に居を構えた。しかし、これが義朝や当時の武蔵守だった藤原信頼も刺激した。そして久寿2年(1155年)、義朝の長男義平に攻められ重隆と共に討たれた(大蔵合戦)。享年は30歳ぐらいとされる。

子女

子の仲家源頼政の養子となった。義兄の源仲綱や頼政が以仁王の乱に加担した時、仲家も嫡男・仲光と共に参戦したが平家の軍勢を相手に討死した。次男の駒王丸は斎藤実盛らの尽力もあり信濃木曾谷の中原兼遠の元に逃れた。この駒王丸こそがのちの「旭(朝日)将軍」木曾義仲である。

外部リンク

源義賢 - Wikipedia

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