概要
源為義の次男、母は六条大夫重俊の娘、別名は帯刀先生。
経歴
母の身分もあり長兄・源義朝を差し置いて嫡男として扱われていた。
皇太子体仁親王の帯刀先生となる。保延6年(1140年)に殺人事件に関与したため帯刀先生を解任された。後に父為義と共に藤原忠実・頼長親子に仕えた。康治2年(1142年)に頼長の領地である能登国の預所職に就いたが、久安3年(1147年)に貢未納のため解任された。度々の失態もあり嫡男の座を弟の源頼賢に譲らされた。後に上野国多胡郡に移り、武蔵国の秩父重隆の娘婿となり同国比企郡大蔵に居を構えた。これが南関東に地盤を築き相模国鎌倉に本拠を構える義朝と当時の武蔵守だった藤原信頼を刺激し、久寿2年(1155年)に義朝の長男義平に攻められ重隆と共に討たれた(大蔵合戦)。
子女
子の仲家は源頼政の養子となった。義兄の源仲綱や頼政が以仁王の乱に加担した時、仲家も嫡男・仲光と共に参戦したが平家の軍勢を相手に討死した。次男の駒王丸は斎藤実盛らの尽力もあり信濃国木曾谷の中原兼遠の元に逃れた。この駒王丸こそがのちの「旭(朝日)将軍」木曾義仲である。