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熊沢天皇の編集履歴

2024-10-12 15:55:27 バージョン

熊沢天皇

くまざわてんのう

熊沢天皇とは、南朝(大覚寺統)の子孫を名乗る熊沢寛道の自称。

背景

戦前においては南北朝時代に別れた朝廷、「北朝」と「南朝」のどちらが正統かについて論議され、1911年に明治天皇南朝を正統とする勅裁が下された。

しかし、そもそも明治天皇並びに大正天皇昭和天皇の系譜は北朝側の持明院統の子孫であるため、その正統性を疑問視する人も存在し、南朝側の大覚寺統の子孫であると自称する一族が現れた。

その中でもっとも注目を浴びた人物こそが熊沢寛道(くまざわ ひろみち)《1889-1966》である。


概要

熊沢寛道は名古屋市で生まれる。

養父である熊沢大然は後亀山天皇(南朝最期の天皇)の末裔であると養子である寛道に言い聞かせ、自身を第116代天皇であるといった文書を1911年から宮内省・文部省・政治家軍人などに送り続けていた。

1920年に大然が病死した後は、寛道も第117代天皇として自身を熊沢天皇であると文書を送り続けた。次第に寛道の係累や熊沢姓を名乗る者が、熊沢家の宗家は自身の家系であるとして3-4人ほどが熊沢天皇を自称するようになっていった。

戦後GHQに文書を送り続け、1946年1月18日の米軍兵士向けの英字紙『星条旗』に報じられたのをきっかけに外国で相次いで報道され、日本でも報じられるようになると、南朝の正統を信じる者たちの間で「南朝奉戴同盟」という組織が作られたりもした。

1951年1月、東京地方裁判所に「昭和天皇の天皇不適格確認訴訟」を起こすが、「天皇は裁判権に服しない」として却下された。

1966年6月11日に膵臓がんで死去。


関連タグ

皇位 天皇 昭和史 昭和時代

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