背景
戦前においては南北朝時代に別れた朝廷、「北朝」と「南朝」のどちらが正統かについて論議され、1911年に明治天皇の南朝を正統とする勅裁が下された。
しかし、そもそも明治天皇並びに大正天皇・昭和天皇の系譜は北朝側の持明院統の子孫であるため、その正統性を疑問視する人も存在し、南朝側の大覚寺統の子孫であると自称する一族が現れた。
その中でもっとも注目を浴びた人物こそが熊沢寛道(くまざわ ひろみち)《1889-1966》である。
概要
熊沢寛道は名古屋市で生まれる。
養父である熊沢大然は後亀山天皇(南朝最期の天皇)の末裔であると養子である寛道に言い聞かせ、自身を第116代天皇であるといった文書を1911年から宮内省・文部省・政治家・軍人などに送り続けていた。
1920年に大然が病死した後は、寛道も第117代天皇として自身を熊沢天皇であると文書を送り続けた。次第に寛道の係累や熊沢姓を名乗る者が、熊沢家の宗家は自身の家系であるとして3-4人ほどが熊沢天皇を自称するようになっていった。
戦後もGHQに文書を送り続け、1946年1月18日の米軍兵士向けの英字紙『星条旗』に報じられたのをきっかけに外国で相次いで報道され、日本でも報じられるようになると、南朝の正統を信じる者たちの間で「南朝奉戴同盟」という組織が作られたりもした。
1951年1月、東京地方裁判所に「昭和天皇の天皇不適格確認訴訟」を起こすが、「天皇は裁判権に服しない」として却下された。
1966年6月11日に膵臓がんで死去。