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三好政康の編集履歴

2013-03-20 16:01:34 バージョン

三好政康

みよしまさやす

三好政康とは、阿波の戦国大名三好家に仕えた武将。三好三人衆の一人。地味なことに定評のある三人衆の一人だが、その中では割と有名な方。でも生没年は不詳。

概要

父とされる(これもはっきりしない)三好政長が細川晴元と共に政敵・三好長慶と戦い、江口の戦いで戦死する。そのため細川方として長慶と争うが、後に和解勧告に応じて臣従。丹波八上城攻めや紀伊・河内守護の畠山高政攻めに参加し、優れた前線指揮官として活躍する。


長慶の死後は、幼君・三好義継の後見役の1人として台頭。三好長逸岩成友通と共に『三好三人衆』と呼ばれ、松永久秀とも協力して家中で重きをなした。更に久秀や他の三人衆と謀って永禄の変を起こし、敵対していた13代将軍・足利義輝を殺害する。しかし、その後は主導権争いで三人衆と久秀が対立し、三好家中は内紛状態に陥る。政康らは久秀への対抗策として主君・義継の身柄を確保し、その上で義輝の従弟で阿波公方(阿波国平島に在住していた将軍一族)の足利義栄を次期将軍に擁立。更には阿波本国の重鎮・篠原長房を味方に引き入れ、義栄に久秀討伐の御教書を発行させるなどして万全を期す。そして軍を久秀の本拠地・大和に進駐させ、同じく大和を根城とする筒井順慶らと共闘し、戦局を有利に進める。更には、旧敵・畠山高政と組んで決戦を挑んできた久秀に大勝。なお抵抗を続ける久秀に対し、義継の親征を仰いで戦わずして勝利を収める。その後は、阿波から上陸してきた長房らの援軍も得て、畿内の反対勢力をほぼ一掃した。


しかし、当主義継との関係が悪化し、義継が久秀側に走ってしまう。加えて三好康長ら、一族からも離反者が出たため、三好家は再び三人衆と久秀による内部分裂状態となる。といっても、この当時の戦局はまだ政康ら三人衆側に有利だった。


しかし、1568年に織田信長が義輝の弟・義昭を擁立して上洛すると、状況が一変してしまう。義継と久秀が織田家に接近する一方で、三人衆は信長との対決の道を選ぶが、勝竜寺城や淀城が落とされ、岩成友通が戦死すると、ほぼ総崩れとなってしまう。政康も山城の木津城から、本国・阿波へて退去した。その後も抵抗は続けたようだが、織田方有利のまま和議が結ばれると消息不明となり、1569年に阿波で没したともされる。しかし、実は彼には生存して再度歴史の表舞台に現れたとする説がある。


なんと豊臣秀吉の家臣となってそのまま豊臣秀頼に仕え、豊臣方として大坂の陣に参加したと言うのである。そこに至る経緯は定かではないが、本当なら彼はこの時80台後半の高齢である。にもかかわらず自ら金棒を振るい、味方の離脱者が続く中で秀頼に忠誠を尽くし、大坂夏の陣で討ち死にした。87歳(88歳とも)だったという。真田幸村の部下で「真田十勇士」の1人である三好清海入道のモデルは彼だとされる。


逸話

実は当時一流の刀剣の目利きであり、「三好下野入道聞書」という目利き論の著書も書いている。鑑定術における、細川幽斎の師であったという。長逸や友通、久秀と共に将軍・義輝を殺害した際、義輝が抵抗する際に用いた刀剣の価値に気付き、丁重に保護したのはこの政康であった。この時使用された刀は、童子切り安綱,鬼丸国綱,鬼切国綱,ニッカリ青江,二つ銘則宗,不動国行、薬研藤四郎、骨喰藤四郎、大典多光世、小龍景光、南泉一文字、三日月宗近、鷹巣宗近、籠手切正宗、村雨郷といった日本を代表する業物であり、これら貴重な刀身の多くが今日に残っているのは彼の功績である。

関連タグ

三好三人衆

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