概要
第二次世界大戦直前の1939年にソ連軍はフィンランドに侵攻するが、フィンランド軍の一撃離脱戦法とスオミKP/-31という短機関銃に悩まされた。スオミKP/-31は木製のライフルストックを備えた当時としては一般的なスタイルの短機関銃だが、当時のソ連軍はまだM1891系のモシン・ナガン小銃しか装備しておらず、軽量小型の自動火器の威力に驚きこれに対抗するためにディグチャレフPPD40を開発し、これに構造の簡略化や、製造の単純化を図ったのがPPSh-41である。
ストックは製造に手間のかかる木製のままではあるが、銃身は口径が同じモシン・ナガン用のものを転用し、機関部はプレス加工とスポット溶接で製作することで大量生産を可能にした。
単純化された構造のおかげでメンテナンスが容易であり、堅牢な作りなのでいかなる状況でも作動する実にロシアらしい銃である。
一番の特徴は一般的な短機関銃の二倍以上の装弾数71発を誇るドラム・マガジンを使用していることだろう。スオミKP/-31から受け継いだその装弾数により戦場では圧倒的な制圧射撃能力で優位にたてたが、装填やマガジン自体への装弾に時間がかかり、給弾不良も起きやすかった。また装着すると大容量ゆえにフロントヘビーになり、グリップと近いトリガーガード前方に手を添えるしかないこの銃が非常に構えにくくなるなどの欠点もあり、大戦末期には生産性の向上も考慮した35発のバナナ型マガジンが製造された。
大量生産品だけあって、命中精度はあまり高くないが、「ホースの水みたく弾をばら撒くから命中精度なんてよくね?」という理由があるとか無いとか・・・。
第二次世界大戦後、ソ連はAK47を採用したためPPSh-41は東側諸国に供給され、中国や北朝鮮で生産されて朝鮮戦争やベトナム戦争にも使用された。
愛称
正式名称の頭文字を取りPPShのとなるが、ロシア語の「殺せ、殺せ」の発音をもじってソ連軍は「ペーペーシャー」と呼ばれた。ちなみにドイツ軍は「バラライカ」、日本軍は「マンドリン」と、ロシアの楽器にちなんで呼んでいた。
データ
全長 | 840mm |
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銃身長 | 269mm |
重量 | 3500g |
口径 | 7.62mmトカレフ |
装弾数 | 35/71発 |
余談
なお、このPPSh-41はドイツ兵も好んで使っていた。
71発という装弾数の短機関銃は他になく、高速で大量の銃弾をばら撒ける本銃の火力は重宝された。
逆にソ連兵はMP40を好んでいたと言われ、こちらは作りの良さや、操作性が好まれていたようだ。
PPSh-41からわかること
ドラムマガジンの受難
71発という装弾数は重宝される一方、大きくて重く、多数の予備を持てないという欠点もある。
何が起きるかわからない戦場では、総数で沢山弾が持てれば良いというわけでもなく、弾倉自体の予備もそれなりに必要なのだが、それが難しい上にPPsh-41用マガジン特有の欠陥だけでなくドラムマガジン自体の構造にも問題が多かった。
これは単純なバネと箱の組み合わせでは限界があり、逆に複雑な機構を要する場合が多くなってしまうこと、どちらにせよ製造に手間がかかること、砂塵や部品の変形による故障で給弾不良が起きやすいことなどが挙げられる。
ソ連の内情
当時のソ連軍では71発入り弾倉の場合、規定の携行弾数は142発である。
これは予備弾倉を1つだけ持つという事であり、これは終戦間際にPPS43が増えてくるまで変わらなかった。つまり前述のような装備の兵士は予備を失くしたり、故障したらおしまいという状態で戦っていたのである。
当時のソ連軍は人海戦術的な機動戦を得意としており、軽装な兵士を戦車で前面に押し立てるといったものだが、兵士を大量に投入すればそれだけの銃器が必要となり、それに使用する弾薬や弾倉などはさらに必要になってくる。兵士一人に対して銃一丁と弾倉二つならまともな方である。
PPShに限らず、当時のソ連兵士の携行弾数が少ないのは、生産や輸送が戦場での大量消費に追いつけなかったことが原因といえるだろう。