正式名はラケダイモンだが、ほぼスパルタの方が優先的に使われる。
紀元前600年ころはギリシャ世界を暴れまくったが、結局紀元前146年に都市国家ローマに属州として組み込まれてしまう。
スパルタではこれが日常生活・・・。(レオニダス王時代)
- 日本語:スパルタ
- 英語: Sparta
- ドーリス語: Σπάρτα / Spártā スパルター
- アッティカ方言:Σπάρτη / Spartē スパルティー
- 現代ギリシャ語:Σπάρτη / Sparti スパルタ
- 正式:ラケダイモン
- ギリシャ語:Λακεδαίμων
- 英語: Lakedaimōn
『スパルタ』の表記由来
アッティカ方言では『ラケダイモン』のことを『スパルティー』といい、それをギリシャ人が『スパルタ』という表記で『ラケダイモン』をさすことにしたので。
概要
ペロポネソス同盟の盟主となりアテナイやテーバイなどと覇権を争った。他のギリシャ諸都市とは異なる国家制度を有しておりとくに軍事的教育制度は「スパルタ教育」として知られる。
初期
紀元前10世紀ころに祖先がギリシア北方からペロポネソス半島に侵入し、ミュケナイ時代の先住民アカイア人を征服しヘイロタイ(奴隷)にした
最盛期
こうしてペロポネソス半島をほぼ蹂躙したスパルタは、紀元前600年ごろにペロポネソス同盟というスパルタを主として、その参加国をスパルタの属国とする同盟を作る。
ここがスパルタの最盛期となるらしく、アテナイなどがスパルタに挑んだがことごとくスパルタに蹴散らされ、アテナイ市民などはスパルタの奴隷として地獄に落ちて行った。
衰退
紀元前400年中頃からマケドニア王国がアテナイやテーバイに侵略を開始した、アテナイやテーバイはスパルタに協力を申し出るが、スパルタはこれを拒否。
結局アテナイやテーバイはマケドニア王国の版図に組み込まれてしまった・・・。
紀元前300年ころにマケドニア王国がスパルタを仲間に組み込もうとしたが、スパルタはこれを拒否、結果マケドニアと交戦するも、なんとマケドニアに敗れてしまう・・。
マケドニアに敗北後、いろいろスパルタも改革を行ったが、結局マケドニア王国→新覇権国のローマニアと多々抗戦するもスパルタは見事敗北、国家集団の体を失う・・。
そして、紀元前146年にアカイア同盟をコリントスの戦いで破ったのを機に、スパルタを含むギリシア全土をローマの属州に組み込み属州アカエアとなる、これにより国家としてのスパルタの息の根は止まる。
社会生活 リュクルゴス
スパルタ市民はリュクルゴス(Lykurgos)といわれるに基いた社会生活を営んだ。
スパルタ市民(5万人)は基本みな『軍人』であり、家族構成や、社会基盤がすべて軍団の構成員を基準に設置されている。
などがある
奴隷の過酷な扱い
スパルタはギリシャ諸都市を群を抜いて『侵略的』だったので、当時のギリシャ世界においてはかなりの『領土』を持つ国家集団であった。そして征服した住民への支配も苛烈を極めた。
まず奪った土地はスパルタ市民(約5万人)に均等配分され約15万人とも25万人ともいわれるヘイロタイは奴隷の身分から解放されることも移動することも許されず土地を耕してスパルタ人に死ぬまで貢納させられた。
そして、ヘイロタイに反乱の兆しが見られると、クリュプキアと呼ばれる処刑部隊が夜陰に紛れてヘイロタイの集落を襲い、住民を虐殺して回った。 そして住民の遺体は見せしめに街道に張り付けられた。
双頭元首政
国政においては2人の世襲の王が並立し、その権限は戦時における軍の指揮権などに限定されていた。2王家はそれぞれアギス家とエウリュポン家という。
スパルタの統一過程で採られた妥協の遺制と思われる。
ペルシア戦争のテルモピュライの戦いで有名なレオニダス1世はアギス家の王である。
「スパルタ教育」
現代日本では厳しい教育一般について、比喩として「スパルタ教育」と呼ばれることがあるが、この言葉を教育論として執筆・推奨したのは、あの石原慎太郎である。