概要
アメリカ軍が日本本土への爆撃の拠点として、飛行機の離発着に適した硫黄島の攻略をめざし、それに対抗する栗林忠道率いる日本軍が戦った。
アメリカ駐在経験のある栗林はこの戦いの勝利そのものは難しい事を最初から理解しており、そのため「1日でも本土への進軍を遅らせる」ことを目標とし、島内に長い地下壕を構築して持久戦に持ち込むことを考え、「バンザイ突撃禁止」などの指令を出していた。
島は火山島であるため地下壕を掘る作業は熱と湿気に苦しめられるものであった。
昭和20年2月16日にアメリカ軍が到着、一部の部隊が栗林の指令を破り応戦したものの殆どの日本軍は地下壕に身を潜めて米軍の上陸を待ち、内陸部に引き込んでから一斉攻撃を行ってアメリカ側に多大な損害を与えた。
その後も日本軍は粘るも徐々に米軍側に制圧されていき、米軍側は地下壕に爆弾を投げ込んだり火炎放射器を放つ等して地下壕の日本側を攻撃。また神風特攻隊も千葉から派遣され米軍の空母や貨物船に損害を与えた。
1ヶ月半近くに渡る戦いの末、日本軍は徐々に追いつめられていき、3月頃には玉砕の様相が濃くなっていった。
そのため3月16日に栗林は大本営に訣別電報を送り、その後他の幾人かの幹部とともに制服の階級章などを外して身分がわからないようにした状態で26日に約400名の将兵とともに米軍陣地に夜襲をかけて戦死した。栗林の遺体は特定できず、最後の詳細はわかっていない。この攻撃に参加した市丸利之助は『ルーズベルトニ与フル書』を懐中に隠して出撃しアメリカに目論み通りこの書は渡った(しかしルーズベルト大統領は既に死去していた)。
その後も散発的な戦闘はあったものの、ほぼ島全体は制圧された。
太平洋戦争中でも米軍の損害の多かった希有な戦闘である事からアメリカ側にも大きなインパクトを与えた。
なお、この戦闘に参加したオリンピックの馬術競技金メダリスト西竹一も戦死している。
また多数の映画等の題材にもなっている。
硫黄島の戦いを題材とした作品
映画
- 硫黄島の砂
- 父親たちの星条旗
- 硫黄島からの手紙
余談
この戦いの場所である硫黄島の読みは現在「いおうとう」であるが、平成19年にこの読みに統一されるまでは「いおうとう」「いおうじま」のどちらも使用されていた。
なので戦闘を指す際の読み方はどちらでも間違いではない。
ただし上記の読み方固定に関しては「イオージマ」の名に格別の思い入れがある米軍関係者やOBの一部からブーイングがでていた。