出れば負け軍師
という不名誉なあだ名を頂戴することになる、三国志界きってのネタ軍師
これが正しいかどうかはそれぞれの判断に任せるが、西暦200年袁紹軍が官渡の戦いで曹操軍に敗れ、その2年後に袁紹が死去し、曹操と戦っているというのに後継争いで長男と三男派に分かれて内部分裂、結果205年に袁家は滅亡したというのは基本的事実として頭に入れてもらいたい
概要
豫州潁川郡の生まれ。俊才として知られ中央官界で官吏となり、その後袁紹軍の軍師となる。後献帝が長安を脱出した折は袁紹に迎え入れるように説得したとも、迎え入れるのに反対したとの説が存在する(演義では基本的に後者説)。韓馥から冀州を事実上奪う事に成功している。
一連の官渡の戦いでは、序盤、当時劉備は曹操に追われ袁紹軍に匿われていたが、関羽は曹操軍に客将として迎え入れられ、袁紹軍の猛将顔良を討ち取っている。この際、郭図は劉備を殺すことを袁紹に進言している
・・・とまぁここまでの実績は申し分ないのだが、ここから先は知られるように「負け軍師」の本領発揮となる。
前後して開戦前に対曹操への作戦案で、沮授と田豊が持久戦、審配と郭図が短期決戦を主張、作戦案が分かれるのはよくある話だが、郭図は己に反発(日頃から仲は良くなかった)沮授を讒言を用いてその軍を割いており、後には全てを掌握している。
烏巣の兵糧基地が襲われた時は、郭図は官渡攻略を進言しているが、袁紹の判断ミスで張郃が敗戦するとその責任をすべて張郃に負わせて、結果張郃は曹操に寝返っている。
官渡の戦いは敗北で終わり、その二年後袁紹は死去するが、後継指名をはっきりしてなかったため、長男袁譚に嫉まれていた審配、逢紀が三男袁尚を擁立し、郭図は袁譚を推し袁家は二つに分裂した。当然ながら中央の曹操軍の恰好の謀略の餌食となり、曹操軍が攻めてきて一度は両派は和解したものの、曹操を撃退すると再び分裂、袁尚に敗れると郭図は曹操と手を組むが、曹操が袁尚を滅亡した後に結局攻め滅ぼされ、討死している。…何故このような人物が名門袁家の軍師格に慣れたのか、三国志有数の謎である。
創作作品において
コーエー三國志シリーズ
「爆笑三国志」シリーズで「出れば負け軍師」の汚名を頂戴することになる。ゲームにおいては何故か初代で武力90(顔良89)を誇る猛将となった。