概要
荊州南陽郡の人。
聡明で計略に長じていたとされている。元は何進に仕えていたが、親交のあった袁紹が旗揚げをした時は許攸とともにそれを助け、参謀として仕えた。
袁紹が冀州を狙うと、逢紀は冀州牧の韓馥が臆病な性格であることを利用し、「公孫瓚に韓馥を攻めさせて、韓馥が臆病になったところを、使者を派遣して利害損得を説明させれば、韓馥は冀州を譲るでしょう。」と提案し、その目論見通りに韓馥は冀州を袁紹に譲り、強大な河北袁紹政権の基礎を築いた。後に、逢紀は審配と共に袁紹軍の軍務を総理した。
最古参で政権の基礎を築いた功績などから袁紹に重用されていたが、同僚との関係は悪い者が多く、特に審配・田豊とは常に対立していた。しかも、田豊は官渡の戦い前に持久戦を主張して聞き入れられず軍の士気を損なったとして投獄された上に、戦いで大敗すると、逢紀が讒言したことで袁紹は「田豊は自分を笑い者にする」と思い込んで彼を処刑してしまう。一方、讒言により窮地に陥った審配を「私情と国事は別問題である」と審配を弁護したことで、彼との関係は一時改善されている(後にまた険悪となる)。
袁紹死後、長男・袁譚と三男・袁尚が対立して内紛が起きた際、逢紀は審配と共に袁尚を支持し、袁紹の遺命を偽造してまで袁尚の後継を強行したとされる。
この骨肉の内紛を見て、曹操が侵攻して来た際、逢紀は袁譚の目付役として同行していた。袁譚が駐屯する黎陽に曹操軍が攻めてきたため、袁譚は袁尚に増援を頼んだが袁尚はそれを送らなかったため、怒った袁譚は逢紀を殺害してしまった。
荀彧から「逢紀は、向こう見ずで自分のことしか考えない」と批評されている。