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列車砲

れっしゃほう

支援用火砲のひとつで、移動可能な陸上火砲としては最大級のもの。鉄道を利用できるので砲の大口径化・移動性能の高速化に有利。だが砲と鉄道との運用に人手がかかり、基本的に砲を自力で旋回させられないのでターンテーブルなどの支援設備が必須。現在は地対地ミサイルなどに置き換えられている。
目次 [非表示]

概要

列車砲とは、通常地上では運用が困難な大口径砲を列車に搭載し、鉄道のレールの上を走行させることによって移動を可能としたもの。


列車砲の必要性

その昔、大砲砲兵が押したり、もしくはに曳かれる事で移動していた。

だがいずれの方法にしても速度は遅く、戦場では展開についていけない事も多かった。


そこで登場したのが南北戦争で生まれた「列車砲」という運用法である。

これは鉄道の発展が必要で、さらに出力の大きな機関車がある事が条件だ。


その方法とは貨車に大砲を積みこみ、さらに機関車に接続して戦場近く(砲の射程内)まで輸送してもらうのだ。これなら従来とは桁違いのスピードで展開し、砲撃が可能になる。

かくして列車砲は砲兵に機動力を与えたのである。


わが世の春へ

その後も欧米列強はこぞって列車砲の開発に力を注ぎ、イギリスフランスドイツなどの列車砲が華を競った。


第一次世界大戦では『パリ砲』と呼ばれる巨大砲までが開発されている。

その他にもわが日本でも列車砲は開発され、ソビエトに接する満州に配備された。


『パリ砲』

wikiによると、「ヴィルヘルム皇帝砲」とも呼ばれ、製作はクルップによる。


1918年3月21日、およそ120km離れたパリめがけ、初めて発射されている。

その後半年で320~367発の砲弾が撃ち込まれ、包囲下にあったパリ市民を恐怖に叩き込んだ。

(正確な弾数は不明)

直接の死傷者こそ876名だっが、この混乱で市民50万人がパリを後にしたと言われている。


しかし約30mの砲身はブレも大きく、弾着誤差には前後2㎞・左右800mものバラツキが出たという。

パリ市に落ちた砲弾も183発だけだとか(異説あり)。

これでは命中率は57%(320発発射説)でしかなく、あまり大きな被害になったとは思えない。


だが実際の被害はともかく、市民に与えた衝撃の大きさたるや、ヴェルサイユ条約に「長距離砲の開発禁止」が加えられたほどである。この制約はナチスドイツをロケット兵器開発に駆り立てるきっかけともなるが、この時点では誰一人として知る由もなかった。

  • 「パリ砲」データ
    • 重量:256t
    • 口径:210㎜
    • 有効射程:130km
    • 初速:1600m/s
      • (敗戦前に資料が破棄され、部品すら残っていないので詳しいデータはよくわからない)

列車砲の限界へ

さて第一次世界大戦が終結すると、今度は航空機が発展が目立ってきた。

象徴的な出来事といえば『リンドバーグの大西洋単独無着陸飛行』(1927)である。

ここに人類は、大空さえも利用できるようになってきたのだ。


軍隊における航空機の利用そのものは第一次世界大戦の頃から始まっていたが、

航空技術の急激な発展は偵察だけに留まらない。空戦や爆撃にも使われるようになっていた。

偵察機の項も参照)

砲兵の役割は爆撃機でも果たせるようになったのだ。


ここに『陸軍の古参』こと砲兵と、『ザ・新勢力』こと航空部隊の派閥争いが始まった。

派閥争いはお互いの「予算」を食い合う事で加熱していき、あるとき突如終わりを告げた。

第二次世界大戦』の勃発である。


第三帝国ことナチスドイツは速度の遅い砲兵の代わりにスツーカを投入し、

さらに地上部隊を機械化することで火力投入と戦線突破のスピードを飛躍的に高めた。

グーデリアン将軍発案の「電撃戦」が始まったのだ。

この電撃戦はヨーロッパを席巻し、とうとうソビエトにまで余波を広げた。


だがナチスドイツは次第に勢いを失い、

またスツーカカチューシャ(兵器)に置き換えて機械化し、こちらも砲兵の高速化に成功した『ソビエト流電撃戦』も相まって降伏を迎えることになる。


かくして時代は速度の遅い砲兵の時代から、

進出能力に優れる航空機が主流になったのである。

(もしくは自走砲トラクターなどで機械化され、速度が高まった砲兵)

アンツィオ・アニー

1944年1月22日、連合軍はイタリア本土上陸にふみきる。作戦名は『シングル作戦』

そしてこの上陸作戦の中心地の名が「アンツィオ」だったのである。


作戦当時、この地方にはドイツ軍の28cm列車砲「クルップK5」が2両配備されていた。

そして砲兵はただちに仕事を開始した。

海岸にひしめき合う上陸部隊に向け、その28cm砲弾を撃ち込み始めたのである(それも大体決まった時間に)。


このK5から放たれた数発の砲弾で橋頭堡は壊滅状態となり、連合軍は震撼した。

当初は爆撃だと思われていたが、間もなく砲撃である事が分かった。上空にドイツ爆撃機など近寄れる訳が無いのだから。

かくして上陸部隊は大騒ぎになった。目に見えない敵とは、やはり恐怖の的だったのだ。

実際の損害はそう大したものではないとは言え、連合軍は対策に迫られた。


そこで戦闘爆撃機によるパトロールが行われるようになった。

だが簡単な仕事ではなかった。

『一体どこから撃ち込まれているのか』。これに皆目見当が付かなかったのだ。


K5の最大射程は62.4km。

精確に照準できる距離ならもっと短くなるのだが、最大半径約60㎞はあまりに広すぎた。

その上この地方は山がちでトンネルも多くあり、隠れ場所にはもってこいだったのだ。


極め付けは「ゲリラ的に1発撃ったらすぐ隠れる」という早業。

しかも慣れるにつれ、これが段々早くなっていった。

こうして付けられた仇名は『アンツィオ・アニー』または『アンツィオ・エクスプレス(アンツィオ特急)』。まさに早業である。


ここに『どれだけ早く隠れられるか』vs『如何に場所をつき止められるか』というレースが始まった。

おまけにK5は列車砲としては軽量で小回りが利き、どの路線に居たっておかしくなかった。

だが砲撃にもめげず、連合軍が侵攻するにつれて砲撃はしだいに減っていった。

空も陸も厳重に監視され、隠れ家から出られなくなったのである。


1944年6月4日、連合軍はローマを占領。

その3日後(6月7日)、とある停車場で放棄されたK5列車砲2門が発見された。

これこそが、半年にわたって「目の上のこぶ」として連合軍を苦しめ続けた『アンツィオ・アニー』だったのである。かなり危うい所まで追い詰められたものの、結局ドイツは逃げのびたのだ。


この2両には「ロベルト」「レオポルト」と名前が付けられていた。

もちろん破壊されてはいたが完全ではなく、なかでも損傷の少なかったレオポルトを基にニコイチ修理で復活させることができた。

戦後これはアバディーンに輸送されてテストされた後、『レオポルト』と名付けられて同博物館にて展示されている。


ああ列車砲ロマン

第一次、第二次世界大戦にドイツ軍が運用したものが有名で、特に巨大なものは男心と絵心を絶妙にくすぐる。


列車砲の弱点

もちろん線路の無い場所には移動できないという点である。

鉄道網の普及具合は国によって差があり、さらに規格(線路の幅)が違う事もあった。


なかでも巨大な列車砲として知られる『ドーラ』だが、この砲は特に象徴的な逸話がある。

ドーラは複線の線路により運用されるものであり、機動しようとすれば射程内まで複線の線路が必要となる。当然そんなことは運用的にもインフラ的にも不可能であり、実際には分解した上で鉄道輸送し、射撃地点にて組み立てられるという、列車砲のアイデンティティをかなぐり捨てるような方法がとられたが、当然射撃地点には複線の線路と、さらに組み立て用ガントリークレーン車が走る分も加わって複々線が必要となっていた。


つまり、実戦で使いたければ線路敷設から始めなければならないのだ。

線路敷設と巨砲の組み立ては大きな人手と期間を必要とし、列車砲本来の利点である『機動性のよさ』を完全に殺してしまっていた。結局実戦での活躍はセバストポリ要塞攻略戦だけで、しかもその後の消息もはっきりしない。

(1942年8月のスターリングラードにも姿を現したが、そのまま姿を消している)


結局戦後にバラバラの部品(おそらく3両分)だけが発見され、実物は現存していない。

ドーラ1門の運用の運用に必要な人員は

  • 射撃を行う砲兵
  • 分解組み立て要員の工兵
  • 分解したパーツと物資・人員の輸送を行う鉄道員
  • 警備や着弾観測のため通信、偵察、情報小隊が一個づつ
  • 対空警戒のための高射砲部隊

なかでも高射砲部隊などは一個大隊が必要で、総勢にして約5000名となった。


これは陸上自衛隊にすると普通科(歩兵)大隊6個にも相当する、非常な大所帯である。

必要な人員が多すぎるのも廃れた理由だったのだ。


80cm列車砲「ドーラ」

型番では「80cmK(E)」といい、ヒトラーは「重グスタフ」と呼んでいた。

いっぽう砲兵達には「ドーラ」と呼ぶほうが通っており、これは設計者の妻にちなんでいるという。

なおwikiでは別説が表記されており、どちらが実態なのかは判らない。


前述の通り列車砲でありながら機動力はほぼ皆無であり、移動の際には分解されて射撃地点まで運搬される。セヴァストポリに展開した際には5編成の輸送列車を要し、列車の総延長は1653mにも達したという。輸送列車の到着から発射までには3~6週間もの組み立て期間も必要であった。


合計3門が計画され、うち2門が完成。

また、非常に目立つ兵器だったのだが、その消息にも謎が多い。

ドーラ1番砲はセバストポリ攻略戦に参加し、その後スターリングラードにも姿を見せたという。

(一説には「スターリングラードに現れた」のが2番砲だとも言われている)


その後1944年のパルチザン組織による目撃情報(未確認)を最後に消息はぷっつり途切れ、

ババリアで発見された残骸が1番砲、

ライプチヒ~オーベルリヒテナウ間に放置された部品が2番砲、

メッペルやエッセンにあったのが3番砲(未完成)の部品

というのが定説であるという。

(参考文献:グランドパワー10月号別冊「W.W.II ドイツ戦闘兵器の全貌」デルタ出版 1995年)


さらば列車砲(非情な現実)

列車砲の発達と衰退は、運搬装置と交通インフラの進化・発達と連動している。

冒頭で触れた通り、かつて重砲の運搬手段(動力)といえば“馬”くらいだった。なので、より威力があり射程の長い重砲を実現するためには、“列車(鉄道)”という手段しかなかったのである。

それがやがて、自動車キャタピラを持つ装軌車(自走砲)に取って代わられ、さらに鉄道に代わって高速道路網が整備された現在では、装輪式自走砲やトラックシャーシの榴弾砲さえ存在する。

もちろん、口径30cmクラスの巨砲を移動しようとすれば、現在でも手段は鉄道か船しかない。しかし、ロケット弾ミサイルといった、より軽量・簡便で、長射程の火力の登場によって、大口径の重砲も存在意義を失った。


前述のように、戦場における火砲(火力支援)の重要性は現在も揺るぎない。しかし、動きを軌道(線路)に縛られず、自在に展開できる“足”の出現によって、“砲”が“列車”である必要はなくなった。

今や列車砲は歴史的な役目を終え、ロマンの彼方の存在となったのだ。


だがそれがいい


フィクションにおける列車砲


関連項目

少佐 ドーラ

装甲列車

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