印象派
いんしょうはまたあんぷしょんにすと
(日)印象派・印象主義
(英)Impressionist インプショニスト
(仏)Impressionnistes・(印象主義)Impressionnisme (アンプション二スト)
19世紀後半のフランスに発し、ヨーロッパやアメリカのみならず日本にまで波及した美術及び芸術の一大運動、クールベの写実主義を発端にした組織的芸術主義の一つで、主に、サロンを中心とした貴族画家による古典主義に対立している派閥である。なのでその絵描きはその当時の市民階級が中心となった。
フランス国王・その当時はフランス皇帝が主催するフランス唯一の芸術展覧会(サロン)が活躍の場であった。(日本でいえば日展だが世界の芸術を動かしてきたのは断トツでサロンのである)その流れをクールベという『狂気の画家』がサロンに真っ向喧嘩を挑み、自腹で展覧会を開いてしまった。それまでは自腹で展覧会を開くという『観念』さえなかった。(実際クールベという画家は『呪われし画家』『カトリックの異端者』『悪魔』とか言われ・・。)
当然だが、印象派時代以降は画家いえども自腹が当然というう価値観が顕著に生まれ、飢え死にするものが続出した。彼らの懐を支えていたのは、皮肉にも彼らの芸術思想に共感を得てパトロンとなったブルジョワたちである。
元来ヨーロッパにおいて、芸術とは真理や神や王族や偉人達等のミメーシス(イミュテーション:模倣)であり価値の低いものとされてきた。ルネッサンス期を経て、見る者にそれらのイデア(真実の状態、または真実)を想起させる効果と価値を見出され、王族や貴族はこぞって自らの権威と栄光を後世に残すために画家や芸術家を起用した(当時芸術は都市有権者への広告の効果があった)。
古典画家というものはそれ以降君主や貴族の目にとまった『画家が君主に頼まれ描いていた。酒に溺れようと、賭博と借金に塗れようと、君主の嫁さんや寵愛する美少年と戯れても君主が良ければ良かったし、ちゃんと仕事さえ全うすれば相応の報酬も貰えた。
しかし当然ながら、仕事は仕事であって要求された事に応じなければ作品として取り扱ってもらえない。ルネッサンス期前後までの絵画のモデルが軒並み美男美女なのは、当然ながら美化が入っている。いくら担当する相手がデブでブスで色狂いな年増のオバサンでも、頼まれた以上は美女として描かなければならなかった。
その上一部の教養のない金持ちなんかはテキトーに画家の仕事にケチばかり付け、従わなければ契約を切り捨てる振りをして脅してきた。描く側にも意地はあるのだが相手が領主では太刀打ちできないのでそこは上手く切り抜けるしかないのが実情だった(ここら辺で譲歩しなかったのがミケランジェロな訳だが)。
これら画家の周囲の環境が近代に入っても継続している点をを指して、知識人は芸術世界が未だに伝統的な貴族中心主義を引きずっていると考えた。画家は金持ちから依頼がなければ芸術活動すらできず、自己判断のないまま技術だけが身に付いたスネカジリ業界であると。
そこからクールベはそれまで『画家が描くべきもの』ではないと思われていた、魚やその町の風景をそのまま描いた。(ことになった。)とにかく、『貴族』や『坊主』共に気に入られない物を非難覚悟で飾った。
印象派への異論 一般人をそのまま描いたのではない、一般的に印象派は自然や巷にいる市民をかいたというが、これはかなり複雑なことである。絵画、とくに人物画は。基本的に『普通の市民』を描いたものは存在していない、普通『人に絵を描かれるということは』嫌がられるのだ、仕事のじゃまだとかなって。無理だなので普通は資金などをを払って『黙っていてくれる』モデルを使わざる得ない。今で言うと俳優などであるが。古典画家とかは、資金があるので美男美女を書くことが可能だった。(当然美男などは人気があるので高い)
実際印象派でもモデルをつかったのだが、印象派は貧乏なので、『市民に』賃金をはらって『黙っていてもらって描いた絵』がたくさんある。(セザンヌ・ドガ・マネ・モネ・ルノワール)とか。それを後世の人間が巷の人々を生き生きと描いたなんて言うようになった。
ただしこうした表現運動が頻発するようになった原因として、それまでの古典芸術が技巧主義と権威主義に偏り、絵面が極度の古典映画的マンネリズム(十戒とか)に達していたのも事実である。嘘っぱちの美化貴族から苦労してる農民描くようになったぐらいでも大変な進歩といえよう。
印象派の画家は、ダヴィンチ以来の技法おも忌み嫌らうとされ、ルーブル美術館に飾られているような絵に唾を吐いてもなんとも思わない。むしろ率先して伝統や技巧に仇を成したがる。気質的にも社会主義・共産主義を信条にした画家もいる(カミーユ・ピサロ)
(例外はエドガー・ドガである。かれは革命思想が強い印象派の中で貴族主義が前面に出る画家であった、ドガは市民階級を公然と見下した画家である。 そして崇拝するものはダ・ヴィンチや『画家が神時代』だったルネサンスである、よって技法もルネサンスを研究しまくり、独自の技法を作らざる得なかった。)
印象派の特徴
1.輪郭を取らず、黒を使わず、原色を好む。
2.嵐がこようがが外で描く
印象派はとにかく『古典的技法』を使わないのである、そして貴族や神を描かないのである。
では何を書こうかという話になった。結論的には『外にあるもの』になった。印象画家は『室内で描く』画家を忌み嫌うようになりキャンバスをそのまま外に出して油彩で描くという無茶な荒技を生み出した体力自慢のようである都外でキャンバスで描く第一人者はモネである。
絵具を外に出す必要があったので『チューブ絵具』という物も生み出された。それまでの絵画は、原料を水や油で溶き色をいちいち作っており、その為に弟子や画廊のスタッフを数人確保しておく必要があった。印象派画家は大半が貧乏なのでそんな人を傍においとく余裕が無いためこれはありがたかった。
しかしそれは、それまで全部自前で色をそろえていた時代とは代わり、色の傾向や数がチューブ絵具の市場に影響される時代の到来でもあった。極端な話、チューブ絵具を作っている会社が軒並み赤色チューブの生産をストップしたら、画家の側はそれに従い赤いモチーフが描けなくなってしまう事になる。パソコンのRGBで描いている現代では馬鹿見たいな発想だが、頼るモノがそれしかないこの時代では深刻な問題であった。
ドガは逆に室内で描く事を信条だったようで、都外で描く画家を『都外画家の貴様らは銃殺刑に処す』と公言した。当然のことながら都外の第一人者モネとは悪かった。しかもモネは市民階級だったのでブルジョア(資産家)階級出のドガにしてみると同情の余地はなかった。(いやな野郎だな、ドガはw)
結局、確かに印象画家の中には『嵐が起きようが』都外で描き死んだ画家がいるセザンヌは戦死というべきだろう。(セザンヌ)
『外で光を追っていると、黒という色を見かけない』
印象派画家は詰まる所この世に完全な闇という物は存在せず、あるのは影、つまり光が極端に少ない所だという結論に至った。当時ヨーロッパでは目覚ましい科学の発展があり、白黒写真の到来によりこの世の光に明瞭たる境界線は存在せず、すべては相対的な印象である事を画家たちは悟った。
また、液晶画面の発光によって描かれている現代のRGB方式では気付かないのだが、油絵具で混色をすると色は鮮度と明度が落ち、生き生きとした色は表現できない。瑞々しく印象に強く残る色を表現するには原色を混色させずにそのまま画面に配置させる方法が好ましい。点画などはそのような理由を背景に生まれた手法である。
また、それまでの宗教絵画や権威者の肖像画を見ればわかるのだが、黒の混色は否応なく色がくすみ、発色が悪くなる。印象は以前の絵画で背景が軒並み暗いのはその所為であり、結果画面は堅苦しく重苦しい印象しか与えない。その根源を画家たちは黒という色に見出した。
(前者は『俺は印象派みたいな貧乏の集まりは御免だといい』後者は『印象派の信条を取り合わなかった』)
印象派の功績
殆どの印象派芸術家は、人間的にクズである。
浮気はする、借金はする、宗教にハマる、自殺する。
アホばっかだ。
しかし『普通の人が自由に公に絵を書いていい』ということを示した。
権威にヘーコラしたり、伝統を重視して陳腐になったり、無駄に知識付けて知ったかぶりする必要はなくなった。
描きたいものを描きたいように描くのが画家である、という道を切り開いた。
よく、印象派以前に作家のオリジナリティは存在しない、と言われるがこれは大いに間違いである。依頼されて作品を作っていたとしても、それをどうやって表現するかは芸術家の勝手であった。同じ王をモティーフにしても美化の仕方はその人次第で、そこで言えば画家ごとの差異は十分認められる。
しかし、何を描くかに関しては時の巡り合わせが左右した。美女を描きたい時期に女性を描く依頼が来るとは限らない。画家たちは本来描きたい衝動にそぐわない対象との対話を何千何百年も続けていた。そういう意味では、彼らは画家というよりデザイナーであり、そこに自由は無かった。ソクラテスに奴隷と言われても仕方がなかった。
資金も、人材も、画材も、モデルも、権威も、名誉も、何も持っていない印象派画家たちだが
唯一、何が描きたいか、何を描くかの選択肢だけは持っていた。
そこには何者にも制約されぬが故の、本来のオリジナリティが芽生え始めていたのは事実である。