『対・ゼロ戦用対抗機』(第二弾)
F6Fが初実戦に投入された2か月後、F8Fの開発は始まっている。
F6Fはみごとゼロ戦に引けをとらない性能を発揮し、これから太平洋を支配しようという時に、どうしてさらなる新型機が必要とされたのだろう。本当ならわざわざ新鋭機を開発するまでもなく、F6Fをそのまま増産すれば事は済むはずのに。
その答えは『F6Fは大きすぎて、小型空母からは運用できない』というもの。
確かに空戦や対地攻撃に強力な戦闘機だったが、大型でとり回しが悪く、搭載しようにも占有スペースが大きすぎる事が弱点となったのである。
そこでF8Fは思い切って小型とし、あらゆる空母から使える戦闘機を目指して設計された。
しかもエンジンはF6Fの更なる改良型(出力3割増し)を搭載し、おまけに開発~テストまで殆どトラブルを起さなかった。設計でもF6Fで徹底された『対ゼロ戦用空戦機』という位置づけを継承。そのせいもあって初飛行は1944年8月に行われ、ここまで実に9か月という超スピード開発となった。
しかも最高速度は670km/hを超えており、これは重量面で不利になりやすい艦載機である事を差し引いても驚異的な記録である。
(参考までに、ゼロ戦52型よりも100km/hも速い)
能力について
長所
前述のとおり、空戦でゼロ戦に勝つことを目的に開発されている。
さすがに重量面ではゼロ戦に及ばない(=旋回半径では勝てない)ものの、出力面で勝っているので旋回率(回頭速度)では有利となる。
もちろん出力対重量比ではF6Fよりも勝っており、一撃離脱戦法にも磨きがかかっている。とくに末期の太平洋戦線では巴戦(ドッグファイト)に慣れたベテランは少なくなっており、周囲警戒が手薄になりやすい未熟パイロットでは餌食にされるばかりだっただろう。
とにかく、飛行能力ではF6Fを上回っており、これ以上に困難な相手になったことだろう。
F8F・ゼロ戦の重量
全備重量比ではゼロ戦52型は2.7tなのに対し、F8Fは4.4tと、実に1.5倍にもなる。
短所
引き換えに対地攻撃は手薄になっており、F6Fと同等になっている。
この点についてはロケット弾や爆弾を多く搭載できるF4Uの方が勝っているが、これは後の明暗を分けることにもなった。
ゼロ戦よりも小型におさえ、能力を絞り込んだ事がアダになったのである。
このおかげで戦闘爆撃機として活路を見出したのがF4Uだったのだが、F8Fにはその機会すら与えられなかったのだ。
空戦能力に傾倒したおかげで、その後の活躍の機会は失われてしまった。
グラマン社にとってもレシプロ戦闘機開発はF8Fで最後となり、その後はF9F「パンサー」のようなジェット戦闘機へと切り替わることになる。
その後のベアキャット
軍隊生活
終戦とともに「もういいや」となってしまったF8Fはその後、朝鮮戦争で実戦に参加・・・させてもらえなかった。この戦争で対戦闘機用にはジェット戦闘機が充てられ、対してレシプロ戦闘機には対地支援のような補助的な役割が与えられたのだ。
となると、搭載能力の乏しいF9Fに出番は与えられず、対して旧式でも使い出に優れたF4Uが主役を張ることになった。アメリカ海軍におけるF8Fの現役は1952年で終わり、朝鮮戦争が休戦するまですら現役に留まらなかった。この戦争でF4Uは対地支援のため縦横に活躍したが、F8Fは全く活躍せず、ここでも期待外れとされてしまったのだった。
残った機はフランス空軍に売却されてインドシナ戦争に参加したり、南ベトナムがその残存機を運用した事がある。またはタイにも供与され、空軍の一線を務めたりもした。
だが総じて「大活躍」とは無縁であり、当初の期待とは全くはずれたものとなってしまった。レシプロ戦闘機としては新しい方だったとはいえ、空戦ではジェット戦闘機に勝てる訳もなく、かと言って多用途性に優れるわけでもない。当然ながら「時代に取り残され戦闘機」として名を残すにとどまったのだった。
退役後
だが、そんなF8Fにも注目する者たちが居た。
アメリカ各地で催される航空レースにおいて「性能がよく、かつ傷みの少ない機」を求めるレーサーたちの目に留まり、ここにようやく活躍の場を得たのである。
そういった目的ならP-51とタメを張る人気を博しており、航空レースでもよく見かけることができる。レシプロ機における世界最速記録も、このF8F(の改造機)が有している。
高い飛行能力を目的に開発され、それが故に短命に終わった戦闘機は、皮肉なことに戦争以外で人気になったのである。