概要
終戦後にインドシナ半島で発生した戦争のことを指す。
基本的には、ベトナム・ラオス・カンボジアの独立をめぐって、インドシナ地域でフランスと戦った『第一次インドシナ戦争(ベトナム独立戦争)』のことを指す。
ちなみにベトナムの独立と、南北統一及びラオスにおける左右両派をめぐって戦われたベトナム戦争・ラオス内戦は、総称して『第二次インドシナ戦争』と呼ばれ、1978年1月以降のベトナム・カンボジア戦争や、1979年以降のカンボジア内戦・中越戦争を総称して『第三次インドシナ戦争』と呼ばれる。
経緯
植民地解放
1883年のフエ条約締結により独立を失い、カンボジア・ラオスとともにフランスの「インドシナ植民地」とされたが、第二次世界大戦時にフランス本国がナチスドイツに占領され、これを受け日本軍はフランスのペタン政権との合意の下で進駐(仏印進駐)し、軍事的には日本軍が統治し内政的はフランスが続ける状態にあった。
近々予想される連合国軍のベトナム上陸に対する危機感を募らせていた日本は、連合国軍が上陸した際に、フランス植民地軍が日本軍と共にこれを迎え撃つことへの同意を求めたが、フランス軍はこれを拒否し、1945年3月9日に両軍の間で戦闘が起こり、約3万の日本軍は、警察部隊も含めると9万と言われたフランス軍に勝利(明号作戦)、フランス領インドシナ政府を解体し、フランスの植民地支配が終結したと宣言し(仏印処理)、インドシナを200年近くも続いた植民地支配から解放する。
これにともない、後にインドシナでは日本の保護下にあったベトナム帝国・カンボジア王国、ラオス王国がそれぞれ独立を宣言した。
分断・終戦
しかし、この時ベトナムでは天候不順による凶作に加え、アメリカ軍の空襲による南北間輸送途絶や、フランスによる長期の植民地支配による食糧徴発によって、トンキンを中心に大飢饉が発生しており、有効な策を講ずることができていなかった。
ホー・チ・ミン率いるベトミンはこれをベトナム帝国を攻撃するために利用し「200万人が餓死した」と宣伝工作を行って独立運動の主導権を握る。
終戦後、ベトミンは日本の降伏文書が調印されたことを受け休戦協定を結び、ラオスやカンボジアの独立を取り消して9月2日に「ベトナム民主共和国」の独立を宣言し、旧植民地の再支配を謀るフランス軍との戦いとなり、ベトナムはベトナム帝国のバオ・ダイ皇帝を元首とするフランスの傀儡国家である「ベトナム国」と、「ベトナム民主共和国」との分断国家となる。
独立戦争
ベトミンとフランスとの独立戦争は全面衝突する形となり、外国の援助も行われ熾烈を極めたが、ベトミンは1950年初頭頃から、大規模戦闘は行なわず各地でゲリラ戦を活発化させて大攻勢に転じ、ベトナム軍とフランス軍合わせて約1万人の戦死者を出した戦時中最大の戦闘であった「ディエンビエンフーの戦い」でのベトナムの勝利により同戦争の大きな転機となり、敗北したフランスはベトナム撤退を余儀なくされ和平交渉を開始し、関係国の間でジュネーヴ協定が締結され、ひとまずは独立戦争は終結する。
残留日本軍兵士
終戦後にフランスとの独立戦争になだれ込んだベトミンは、日本軍の戦闘能力に目をつけ、ベトナム全土で勧誘活動を行った。
妙齢のベトナム女性が毎晩のように日本軍将兵収容所に現れ勧誘したり、好条件(二階級特進、高給、結婚斡旋など)で参加を求めるベトミンのビラが、サイゴン市内にまで張り出されたこともあり、中には拉致して強制的に参加させられた例もあったという。
ベトミンに参加した日本軍兵士の松嶋春義元陸軍一等兵は、
「あれは大東亜戦争の続きだった。ベトナム人を見殺しにして、おめおめと帰国できるかと思った」
と語っており、様々な思いを胸にベトミンに参加した日本軍兵士は約600名にも上り、彼らは「新ベトナム人」と呼ばれ、現在でも現地へ行き日本人の足どりを訪ねて日本名で尋ねると、「日本人じゃない、新ベトナム人だ!」と怒る人もいたという。
日本陸軍第34独立混成旅団の参謀井川省少佐(ベトナム名:レ・チ・ゴー)は、戦争終結以前からベトミンと接触しており、終戦時にベトミンに武器を提供し、ベトミンに参加後はベトナム人兵士に軍事調練を行って、フランス軍とベトミン軍の戦力差を考慮し、遊撃・奇襲戦術を重視するよう進言していた。
フランス軍は、こういった日本軍兵士がベトミン戦力の要であるとして、その捕殺ないし帰順(投降)工作に熱心であったという。
また、ベトナム初の士官学校であるクァンガイ陸軍中学の教官・助教官全員と医務官は日本人であり、独立戦争の終結後30名を上回る日本人がベトナム政府から勲章や徽章を授与されていることが確認されている。
戦争終結後に、ベトミンに参加した旧日本兵の多くは祖国日本に帰国していったが、当時は冷戦(東西冷戦)の最中であり、ベトナムは東側が掲げる危険な共産主義に準ずる社会主義国であったことから、「共産主義国に奉仕した者たち」として冷たい迎え入れであったという。