概要
仁治3年11月22日(1242年12月15日)~文永11年8月1日(1274年9月2日)
後嵯峨天皇の第一皇子ではあるが、母の身分が低かったために皇位継承は絶望的な立場だった。親王の将来を案じられた後嵯峨天皇と九条家による幕政介入に危機感を覚え、九条家を排除したい第5代執権・北条時頼の思惑が一致し、幕府初の皇族将軍が誕生した。だが、幕府はすでに北条氏による専制体制が整っていたため、親王は儀礼のみを行う権限を持たないお飾りの将軍でしかなく、学問と和歌に励むことが親王の日常となった。
とはいえ、親王の将軍就任は北条得宗家にとって記念すべき大事だったらしい。建長4年(1252年)、宗尊親王が鎌倉に入るにあたっては、大規模なパレードがにぎにぎしく行われ、親王のために新たに若宮大路大御所が造営されたと伝えられている。
親王が25歳となった文永3年(1266年)、正室・近衛宰子と僧・良基の密通が発覚。それが口実となり、謀反の疑いで将軍を解任されて京に送還される。文永9年(1272年)の二月騒動の直後には出家し、その2年後に33歳で死去。
和歌の名手
上述の通り、親王は何の権限も持たないお飾りの将軍でしかなかった。そのため親王は和歌に熱を入れ、歌会を何度か開いている。「続古今和歌集」には親王の詠まれた歌が67首も入選している。これは入選した歌人の中で最多の数字である。また、親王単独でも「瓊玉和歌集」をはじめとする歌集をいくつか出している。
創作物における宗尊親王
大河ドラマ『北条時宗』
ドラマでの親王は演じた吹越氏の怪演により、アクの強い強烈なキャラクターとなっている。似たような境遇の北条時輔に接近し、第6代執権・北条長時や名越北条氏、足利家ら反得宗の面々と手を組んで得宗家を倒そうと目論む。が、御息所の密通事件を機に将軍職を解かれ、京へ送還される。この追放を親王に言い渡したのは主人公である連署・北条時宗であり、僅かな期間(ドラマのストーリー的に言えば前々回の時輔、前回の涼子に続き3週連続で鎌倉から誰かを追放していることになる)で何人も追放していることから「もう追放しとうござらぬ」と発言している。時宗は親王が更迭を承諾するまで、その場から本当に一歩も動かなかった。
嫡男・惟康王に将軍職を譲り京に戻った後も得宗家打倒への執念の炎は消えておらず、承久の乱以降北条得宗家に煮え湯を飲ませ続けられてきた公家達と「北条得宗家を倒すのや!時宗の息の根を止めるのや!」と再び動きだす。名越兄弟に力を貸し、自らの更迭前に六波羅へ出向していた時輔に再び近づく。が、二月騒動で名越兄弟と時輔が(表向きには)討たれ、親王も謀反に関わったとして出家。しばらくののち、失意のうちにお亡くなりになる。この際、鐘の音とともにくしゃくしゃになった親王の顔の静止画(下イラスト参照)が5秒間流れた。
「憎し時宗ぇ~っ!憎し鎌倉ぁ~っ!」
なお、作中では珍しい『史実通りに病により20代、30代で没した人物』(親王の他には北条時茂と時宗くらいである)でもある。
和歌の名手としての顔も健在であり、作中では続古今和歌集の話にも触れている。出家の際も歌を詠んでいた。