平宗盛
たいらのむねもり
平安時代末期の武将、政治家。平清盛の子で、最後の棟梁でもある。
概要
久安3年(1147年)に平清盛の正妻・平時子の第一子として誕生。長兄の平重盛とは腹違いの兄弟である。父や兄よりも早く任官するなど貴族官吏として出世をするが、当時最高の名門平家の三男であったことが影響していると言われる。
本来ならば長男重盛の補佐をしていれば良かったはずの宗盛であったが、重盛の逝去、後白河天皇と父清盛の対立が彼の運命を暗転させていく。以仁王と源頼政の謀反を鎮圧後に清盛が熱病で死去し、源頼朝率いる源氏の挙兵もあって平家は弱体化の一途をたどった。
宗盛率いる平家は攻めて来た源氏によって都を追われ、西国に落ち延びて行くが勢力を回復する事はままならず、ついに壇ノ浦の戦いを迎えてしまう。弟の平知盛をはじめ、一門が入水して死んでいく中、泳ぎ回っていた彼は捕まってしまう。水泳が達者だった上に息子を気遣っていたためと言われる。
捕まった宗盛は都大路を引きまわされた挙げ句、源義経によって鎌倉に送られて頼朝の裁きを受けた。元暦2年6月21日(1185年7月19日)、京都に送り返される途中の宗盛は近江国篠原宿で斬首され、落命した。享年は39歳。
逸話
- 平家物語では暗愚な上に思い上がった卑しい人物として描かれ、源氏側によって編纂された吾妻鏡でも卑屈に命乞いした情けない人物とされる。貴族の日記にも、落馬した話やご飯の食べ過ぎで腹を下したと書かれている。ただし、いずれも反平家の人物が書いたものであるため事実かは不明。
- 「安徳天皇は宗盛と妹徳子が儲けた子」「母時子が男子欲しさに娘と交換した傘売りの息子が宗盛」と言う噂も流れていたと言う。
- 一方で武士らしいエピソードもあり、名馬を巡って喧嘩をした話もある。だが、それも彼を非難する話しにつなげられている。
- 気質は良く言えば温和で沈着、悪く言えば事なかれ主義であり、過激な清盛や重盛のワガママな性格を反面教師としていた言動も記されている。
- 女性や子供に優しく、奥方の死に嘆いて官位を返上したり、逗子の牢獄に繋がれた際にも地元民の子供を可愛がったと言う。死刑になる時にも「ワシが命を惜しんだのは他でもない、我が子のためである!」と叫ぶなど家庭人にして弱者を思いやる気質は清盛の長所を受け継いでいた。子ども達にも良き父親として慕われており、特に幼い副将丸は母親を亡くした事もあり、乳母に預けずに自らの手で慈しんで育てた。