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北条宗政の編集履歴

2016-03-01 07:22:35 バージョン

北条宗政

ほうじょうむねまさ

鎌倉時代の人物。鎌倉幕府第8代執権・時宗の同母弟。

概要

建長5年1月28日(1253年2月27日)~弘安4年8月9日(1281年9月23日

鎌倉幕府第5代執権北条時頼の三男。母は北条重時の娘で時頼の正室・葛西殿。同母兄に鎌倉幕府第8代執権・時宗、異母兄に六波羅探題南方を務め、のちに二月騒動にて討たれることとなる時輔、異母弟に宗頼がいる。幼名は福寿丸。宗政は時頼の息子たちの中では2番目に位置し、時宗共々時頼から大事にされた。時宗の弟として幕政にも参加し、右近衛将監、幕府の評定衆、引付頭人、武蔵守、一番引付頭人を歴任した。

また、時宗が最も信頼を寄せていた人物と言われており、彼が弘安の役の直後に病によりわずか29歳にして亡くなった際はひどく落胆していたという。

七仏薬師と鎌倉の聖福寺

時頼は宗政が生まれた年の4月に薬師如来を造立し、2子の息災延命を祈った。翌年には関東長久、2子息災延命を願って寺社を建立し、寺号を2子の名である寿丸(時宗)・寿丸(宗政)にちなんだ聖福寺とした。

元不良

若き日の彼は少々やんちゃなところもあったらしく、『吾妻鏡』には「家務ことに無行」と評されている。

その他

大河ドラマ北条時宗

「兄上、行って参ります」

※文永の役終戦以降

(演:松川真之介川原一馬比留間由哲

関連項目

北条時頼 北条時宗

北条政村・・・義父(妻の父)

北条師時・・・息子で第10代執権

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