回天
かいてん
概要
第二次世界大戦中に日本が酸素魚雷「九三式三型魚雷」を改造転用した特攻用潜水艇で、終戦までに400基以上が生産された。
艦首部に1.55tの炸薬を搭載している。これは九三式三型魚雷の倍以上である。命中すれば戦艦であっても大破は免れないとされた。最高速度は時速55km/hで23kmの航続力があった。
兵器としての経緯
開発・実戦投入
人間魚雷そのものの計画は早くからあり、昭和17年のガダルカナル島での敗戦以降に持ち上がっている。当初は海軍は導入に否定的かつ消極的で、脱出装置なしでは兵器として採用できないとの意見が強かったが、戦局の悪化もあって特攻が戦闘手段として採用され始めた昭和19年に、海軍大臣の裁量で半ばやむを得ず採用に至る。
前述した脱出装置については、帰還を想定しない兵器ということで結局装備はされず、ハッチこそ中から開放は可能であったものの一度海に放たれてしまえば出ることは不可能だった。
運用としては潜水艦に搭載されて出航し、作戦海域に達すると切り離され、エンジンに点火して目標へ向かい、目標に到達後、乗員が手動で自爆装置を起動させるという方法がとられたが、大戦末期は本土決戦を想定して基地にそのまま配備されるという手法が中心となった。
欠点として、もとが魚雷であるため、前進と左右転進のみで後退はできず、Uターンにもかなりの半径を要した。また、最大潜航深度は80mで甲標的より浅く、潜水艦に搭載した場合その潜水艦もそれ以上深く潜ることができず、敵に発見された場合の回避行動に大きな制約がかかる。
他にも、命中させるには搭乗員が目視と計算で敵船の到達時間を予測してルートを決めるという、予測射撃のような煩雑極まりない攻撃手順や、一酸化炭素や四塩化炭素によるガス中毒の危険など、回天は多くの問題を抱えていたが、これらの問題は、終戦まで改善されることはついになかった。
また、戦艦も大破確実とされた回天が1,400tクラスの護衛駆逐艦に命中しながら小破となった件については、命中激突後跳ね返ってから乗員が自爆装置を起動させ至近弾になったものと推定されている。
戦果・被害
終戦までに回天は前述した通り400基以上、記録では420基が生産されたが、実戦で出撃されたのは148基となっている。残りは輸送中に破壊されるか未使用のまま終戦を迎えた。
戦果としては、アメリカからの証言まで基にすると以下の通りである。
- 1944年11月、回天特攻隊としてもっとも最初に出撃した『菊水隊』の回天12基が米軍ウルシー環礁泊地を急襲し、給油艦「ミシシネワ」に1基が直撃(突入した回天は、回天発案者の一人である仁科関夫中尉のものといわれる)。ミシシネワは積載していた590万ガロンの石油とともに轟沈し、60名あまりのアメリカ兵が戦死、うち50名は今も遺体が見つかっていない。
- 1945年1月、第2次回天隊『金剛隊』の伊48以下母艦6隻と回天24基がウルシー泊地を再び攻撃、兵員揚陸船1隻が回天の直撃で沈没し死者3名。さらに弾薬輸送艦「マザマ」は36mの至近距離で回天が爆発、大急ぎで弾薬を捨てるなどしたため沈没はしなかったが、搭乗員8名が爆発の衝撃で海に投げ出され死亡、艦は修理に5か月を要する大きな損害を受けた。
- 1945年6月、伊36以下第8次回天隊『轟隊』がサイパン島沖でアメリカ艦隊を攻撃、上陸用舟艇修理艦「エンディミオン」が爆発で舵を損傷して航行不能となり、修理のためエニウェトク環礁に退却。ただし、回天の戦果か通常の魚雷による戦果かは不明。
- 1945年7月、フィリピン・エンガノ岬沖で潜水艦伊53から発信した第9次回天隊『多聞隊』のうち勝山淳中尉の乗る1基が護衛駆逐艦「アンダーヒル」に命中。船体は真っ二つに割れ、艦長以下112名の戦死者とともに轟沈。戦後、アンダーヒルは「自らの身を賭して艦隊を守った殊勲艦」と称えられている。
このほか、数隻の駆逐艦に小破程度の被害を与えた記録が残っている。
これに対し、出撃による戦死者は87名、うち49名が発進後の戦死で、これには座礁や突入失敗による自爆による戦死も含まれる。その他訓練中の事故などまで含めると戦死者は145名であり、特に訓練中の死者は15名と、特攻兵器では最も多い。
また、回天母艦の潜水艦も、前述した行動上の制約により被害が絶えず、出撃した16隻のうち8隻が撃沈されている。
備考
「人間魚雷」と呼ばれる兵器はイタリアやドイツ、イギリスにも存在した。
ただし回天とは異なり水中スクーターに近いもので、操縦機器はむき出しで、ダイバーが操縦して接近し、爆弾を敵艦の水線下に取り付け爆発前に退避する。搭乗員の生還を前提とした兵器であったという点で回天とは大きく異なっている。
日本にも同様の構想はあったが、地中海やノルマンディー海岸、ノルウェーのフィヨルド、マラッカ海峡といった狭い海域とは異なり、広大な太平洋での戦いを前提としていたため航続力が求められ、小型ながら本格的な潜水艇の性格を持つ甲標的として完成する。さらにエンジンを装備して行動範囲を広げた蛟龍、水中翼を装備した海龍へと発展している。
1945年7月29日深夜、『多聞隊』の伊号第五八潜水艦がパラオ北方250浬地点付近で米軍ポートランド級重巡洋艦「インディアナポリス」を発見。夜間のため、艦長の判断により回天ではなく通常魚雷で攻撃し撃沈した。
「アイダホ型戦艦撃沈」と判断され、艦内は沸き立ったが、回天隊員は「戦艦の如き好目標になぜ回天を使用しなかったのか」と詰め寄り、悔し涙を流したという。
また、回天搭乗員へ志願した者は1375名にのぼり、のちに生き残った隊員の手記や記録書、回天を基にした小説が数多く出版されている。中でも横山秀夫の『出口のない海』や、先述した回天搭載の潜水艦伊58による「インディアナポリス」撃沈を描いた『雷撃深度一九・五』およびそれを基にした映画『真夏のオリオン』は有名である。