概要
戦前から第二次世界大戦を経て戦後も活動していた日本の政治家・官僚であり、農林大臣・拓務大臣・弾劾裁判所の裁判長などの重役を歴任した。
農林大臣は近衛文麿内閣において初めて就任し、東條英機内閣でも引き続き務め、更に拓務大臣も兼務していた。
戦後は戦犯として逮捕されたが後に釈放され、公職追放の解除後は再び政治家として選挙に出馬し、参議院議員となって政界に復帰、岸信介内閣では法務大臣に就任し、岸内閣を支えた。
逸話
井野が戦後に戦犯として、大森の収容所に入れられていた際に、彼は同所にいた東條と出会い、その際の彼との会話によれば、東條は「井野君、自分はミッドウェーの敗北を知らなかったんだよ」と語っていたらしく、井野は大変驚いたという。
彼は東條に「そんなこと信じられませんよ」と詰め寄って確かめたが、そのところ「私がもしミッドウェーの敗北を知っておったらインパール作戦はやらなかった」と答えられたという。
実は支那事変がきっかけとなって設置された大本営には総理大臣は加わることができず、そのため東條は陸軍大臣を兼任し、後に戦局の悪化にともなって内相、参謀総長、軍需相など、計9つの要職を兼任するようになる。
彼の証言によれば真珠湾攻撃について「陸軍大臣としてその概要は聞いていた」としており、彼の他の閣僚達は事前に何も知らなかったとされている。
後に情報が伝達されるように連絡機関である大本営政府連絡会議が設置されたが、当時の海軍は海軍軍令部が軍令部として、陸軍参謀部と同等同格の組織へと昇格しており、陸軍とは全く関係無しに独自の国防戦略を策定することが可能となっていたため、別々の独立した二つの統帥系統が並ぶ状態となっていて、更に海軍は極度の秘密主義・閉鎖主義・組織温存主義な体制で、虚為と捏造の戦果報道を繰り返していた。
こうした経緯から、大本営自体が陸海バラバラの状態で、連絡会議はまともに機能していなかったとされている。
東條が多くの要職を兼任したのは、当時の日本が軍が内閣から独立したような状態で、国の舵取りを行う首相が軍事作戦の統率を行えない状況であったが故であり、このことから彼を独裁者とする誤解が生まれているとされ、彼は後に「一国の運命を預かるべき総理大臣が、軍の統制に関与する権限の無いような国柄で、戦争に勝てるわけがない」と語っていたという。
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