概要
長門型戦艦の2番艦で、いわゆる「ビッグ7」の1隻。長門に次ぐ日本海軍の象徴として日本国民から親しまれたが、昭和18年6月に瀬戸内海で第3砲塔火薬庫爆発を起こし沈没した。
建造の経緯
長門型戦艦の2番艦として建造されるが、建造途中でワシントン海軍軍縮条約が発効。
これは、「建造途中であっても戦艦は廃艦にする」というもので、陸奥はこれにガッツリ引っかかっていた。
どうしても長門の僚艦が欲しい海軍は、条約をすり抜けるため、近所の病院から入院患者を運んできて医務室に入れ、「軍艦として機能している=廃艦の必要はない」という体裁を整えようとした。
当然、アメリカとイギリスがこんなセコいやり方で誤魔化されるわけもなく、「陸奥は条約違反だ、解体しろ」と抗議をしてきた。
日本は「すいません、陸奥だけは見逃して下さい何でもしますから!」と頭を下げ、結局、アメリカとイギリスに新しく戦艦の建造枠を広げるという形で決着した。
この時の拡張枠で作られたのがアメリカの「メリーランド」、「ウェストバージニア」、イギリスの「ネルソン」、「ロドネイ」であった。
ここに、既に完成していた「長門」と「コロラド」を足して、「ビッグ7」となる。
謎の爆沈
建造途中から不穏な雲行きであったが、ともあれ陸奥は完成し、世界最強戦艦の一角として国民に親しまれた。
しかし、1943年6月、陸奥は停泊していた柱島泊地で、謎の爆発事故を起こして沈没する。
主に戦艦扶桑、戦艦長門によって救助が行われ、乗員1474人のうち、生き残ったのはわずか353人だった。
この爆発事故は内部からの人為的な爆発である可能性が高いとされるが、誰によって引き起こされたかは明らかではなく、いじめによる自殺という解釈もあるが推測の域を出ない。他に「劣化した三式弾装薬の自然発火」「駆逐艦・潮が誤って落としたまま放置されていた対潜爆雷に触雷した」という説もあった。
陸奥の爆沈は国民の動揺を招くと考えられたため緘口令が布かれ、遺体は全て近くの無人島「続島」で荼毘に付された後埋葬され、遺族に遺骨が返還されることはなかった。
死亡した乗組員の家族には給与の支払いが続けられていた。生き残った乗組員は口封じのため真っ先に激戦地に送り込まれ、終戦時に生き残っていたのは60名ほどとされる。
陸奥の沈没事故が公に知らされたのは戦後になってからだが、近隣の住民の間では爆発音や漂着する重油から陸奥爆沈が噂され、いつまでも帰港しないこともあって、大方の国民は陸奥に何かあったことは感づいていた。
また逆に海外に対しては陸奥爆沈による亡失の秘匿は成功しており、米軍からは敗戦直後陸奥の所在を問い質されたという。
沈んだ海底が浅かったため、事故後すぐにタンクに残った重油や遺骨の引き揚げが行われたが、大々的なサルベージは1970年を待つことになる。これは利益を度外視した作業であったため、オイルショックがサルベージ会社の経営を圧迫して中断、現在も陸奥の残骸の1/3は海底に沈んだまま残っている。
陸奥鉄
現在の製鉄では破損の検出目的で鉄に放射性物質「コバルト60」を混入させる。戦前に作られ、海中にあったため核実験の影響を受けなかった「陸奥鉄」は微量放射線を測る測定器にシールドとして利用されている(現在は測定段階で補正をかける技術があり、陸奥鉄でなくともよい)。
核実験で沈んだ長門共々、放射能に縁ある姉妹と言えよう。
奇遇ながら、戦後建造された同名の試験船「むつ」も原子力船として放射能とは縁が深く、トラブル続きでまともな運用ができず、母港からも寄港を拒否されるなど疫病神扱いされた不運船でもあった(原子力船はアメリカ、西ドイツなどでも建造されたが、軍艦を除いて満足に運用できたのはソ連だけである)。結局「むつ」は進水から20年かけてもまともに航行できず、膨大な損失を出して運用を終了し、原子炉を撤去して新造に近いほどの全面改装を受け「みらい」に改名された。
諸元
新造時
全長 | 215.8m |
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全幅 | 29m |
基準排水量 | 32720t |
公試排水量 | 33800t |
武装 |
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装甲 |
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速力 | 26.5ノット |
乗員 | 1333名 |
最終状態
全長 | 224.9m |
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全幅 | 34.6m |
基準排水量 | 39050t |
公試排水量 | 43400t |
武装 |
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航空兵装 |
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装甲 |
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速力 | 25.3ノット |
乗員 | 1368名 |