第二四駆逐隊
だいにじゅうよんくちくたい
大日本帝国海軍に存在した駆逐隊のひとつ。改白露型駆逐艦4隻で構成される。
史実
1918年~1937年の初代と、1937年~1944年の2代がある。
初代
二等桃型駆逐艦「桃」「柳」「檜」「樫」の4隻で編成された。1917年に編成された佐世保鎮守府所属第十五駆逐隊(三代)が番号改定により第二四駆逐隊となった。大陸での活動が多い部隊であった。白露型駆逐艦「海風」の竣工に伴い解隊、名を譲る。
二代
白露型駆逐艦のうち、改白露型とも呼ばれる海風以降の4隻(「海風」「山風」「江風」「涼風」)で編成された。開戦時は第二艦隊第四水雷戦隊所属。蘭印、比島方面に投入され初期の攻略・上陸作戦に参加。1942年6月のミッドウェー海戦では主力部隊の護衛として参加するも機動部隊壊滅に伴い撤退、更に単独航行中だった山風が敵潜の雷撃で失われる。その後もガ島方面で活動を続けるが、1943年8月に江風がベラ湾夜戦で撃沈され、第八駆逐隊から満潮が編入された。しかし、1944年1月に涼風が、そのわずか5日後に海風が敵潜によって撃沈され、満潮1隻となってしまった。
そして1944年2月10日付けで第二四駆逐隊は解隊され、満潮は第四駆逐隊に転出していったのである。
余談ではあるが、通常、特型駆逐艦によって編成されているものを除けば、殆どの駆逐隊が四隻編成である中、山風が失われて以降、長期にわたって三隻編成で行動していた珍しい駆逐隊である。
特に海風、江風、涼風の三隻の編成は、第二水雷戦隊へと編入された後、一年少々の間にアイアンボトム・サウンド周辺で獅子奮迅の活躍を残しており、ガダルカナル島への突入回数20回、同海域における主要な海戦の多くに参加している、元々二水戦に所属していた新鋭艦にも劣らぬ武闘派駆逐隊であった。