T28重戦車
てぃにじゅうはちじゅうせんしゃ
概要
T28はマウスのようなドイツ軍重戦車への対抗として設計され、また重防御されたドイツ軍のジークフリート線に対する攻撃をも企図して準備されていた(ジークフリート線は実際には存在していなかったが)。
最初の発案は1945年春であったが、第二次世界大戦に投入するにはあまりにも遅すぎた。この計画の当初の名称はT28であった。パシフィック・カー・アンド・ファウンドリー社はヨーロッパ戦線における最後のひと押しのために本車を設計したが、試作一号車が完成し、投入準備を終えたころには戦争もまた終わっていた。当初の計画では試作車両を5輌生産する予定であり、最終的には合計25輌の戦車が組み立てられるはずであった。
T28は砲塔を装備せず、主兵装である高射砲を転用した67口径105mm砲を収めるケースメート方式の戦闘室を構築しており、自走砲や突撃砲により似通ったものであった。そこで本車は1945年にT95自走砲へ改称された。しかし1946年6月、この車輛は再びT28へと改称された。この経緯には本車の性格に関する議論があったが、本車の実質は戦車でも自走砲でもなく戦車駆逐車、より正確に言うならばドイツ軍における駆逐戦車(Jagdpanzer)の様式に沿う重戦車駆逐車であり、ドイツ軍重戦車と戦うことを意図していた。
自重は90t近くもあり、これを支えるために履帯とM4シャーマン戦車でも採用されたHVSS懸架装置を複列に並べており、運搬時や良路走行時には外側の履帯を懸架装置ごと取り外し、外した複帯を自車で牽引するか牽引車を用意して運ぶ、という途方もない設計が取り入れられていた。それでいてエンジンはM26パーシングと同じ500馬力のフォードGAFガソリンエンジンでしかなかったため、最高速度13km/h(路上)と機動性はあまりにも劣悪であった(自重50tのM26ですら非力と言われていたのに、そのエンジンで約2倍弱の重量の戦車を動かせというのがそもそもの間違いだった)。
2種類のT28の試作車輛が製造された。これらの車輛は1947年までアバディーン性能試験場およびフォート・ノックスの施設で審査を受けた。1947年、T28のうち1輌がユマ試験場において試験走行中にエンジン火災を起こし、重大な損傷を受けて廃棄された。もう1輌のT28は解体された後にスクラップとして売られることが報告された。
T28が配備されることは全くなかった。なぜならT28の開発と審査は、砲塔装備の重戦車設計であるT29重戦車(M26の拡大版)とT30重戦車に追い越されたからである。T29は本車と同口径の砲を装備し、T30はより大口径の砲とさらに強力なエンジンを搭載して開発されていた。このため、T28の開発計画は1947年10月に終了した。
結局本車は、アメリカの重戦車開発のテストベッドとして終わったのであった。
現在、1両のみ残存する車両がフォートベニングに保管されているが、当車両は1974年に一人の中尉が装備品の棚卸し中に不審に思い捜索し、何故かバージニア州のフォートベルボア陸軍基地のバックヤードに野ざらしで放置されていたものを再発見したもので、当車両が1947年の試験終了時からの27年間をどのように過ごしていたのかは一切わかっていない
第二次世界大戦最重装甲戦車
あまり知られてない戦車だが、戦闘室前面が305㎜・車体前面が133㎜・防盾が292㎜(しかもほぼ円形で実質装甲厚は倍近い)・車体側面がスカート込で152㎜と、あのマウスよりも前面装甲が上という冗談みたいな戦車でもある。
車体の後部か下部くらいしかまともに抜ける箇所は殆ど無い。
反面武装は105㎜砲と、対抗馬であるマウスやE100に比べると若干低めである。