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DD54の編集履歴2017/07/25 01:36:29 版
編集者:丸長
編集内容:大幅に加筆

国鉄DD54形ディーゼル機関車

※メイン画像左が試作機、右が量産機(前期形)。

国鉄が亜幹線用として1966~71年にかけて製造した液体式ディーゼル機関車である。

導入の背景

性能上の問題から本格的な蒸気機関車の置き換えに至らなかったDF50形の後継として、既に幹線用にDD51型の量産が開始されていたが、亜幹線に於いてはやや過剰な性能であり、2エンジンのため割高な生産・ランニングコストの軽減も求められた。

そこで目をつけられたのが、1962年に新三菱重工が独自に試作したものを、国鉄がDD91形の名を与えて借り入れ試用した機関車である。

DD91形は西ドイツ国鉄のディーゼル機関車を参考に、西ドイツ製のマイバッハ社製エンジンとメキドロ社製液体変速機を装備した珍しい機関車であった。凸形車体でエンジン二基搭載のDD51とは違い、大馬力エンジン(1820馬力)1基搭載で、特徴的な箱型車体と『く』の字に折れ曲がった前面(いわゆる「鳩胸」)、1軸の中間台車を備えているのも特徴である。

DD54形の開発に当たってはDD91形の設計が参考にされたが、それには重要な問題を解決する必要があった。当時の国鉄は国産品に拘り、輸入部品の使用を認めなかったためである。

そのため、三菱はマイバッハ・メキドロのエンジン・液体変速機をライセンス生産することで国鉄に採用を認めさせることになったが、後にそのことがDD54形の運命を決定づけることになる。

試作・量産と初期のトラブル

1966年に試作機3両が完成、その後1971年までに6次に亘って計40両が製造された。

福知山機関区(現・福知山電車区)・米子機関区(現・後藤総合車両所運用検修センター)に新製配置後、山陰本線福知山線播但線で活躍を始めたが、新製からわずか2年後の1968年、2号機が山陰本線で推進軸折損(設計ミスによる強度不足が原因)による脱線事故(推進軸が垂れ下がって線路に突き刺さって脱線した。この事故は「棒高跳び脱線事故」と呼ばれた)を起こした。

センシティブな作品

当然推進軸の強化が実施されたが、今度はエンジン故障や精密すぎる変速機の故障に悩まされる(エンジン自体は好調だったとする話もある)。

加えて海外の技術を導入している点が災いし、修理の際は所属機関区で手に負えないケースもしばしばで、そうなっては検査担当の鷹取工場(現・網干総合車両所)に、鷹取工場でもお手上げの場合は製造元の三菱重工三原製作所、終いにはドイツの前記2社に問い合わせねばならなかった。(契約上改修・改造すら認められておらず、おまけに当のライセンスの仲介役だった三菱商事の対応も良くなかったらしい)

また、1970年代に入ると国鉄の労使対立が深刻化したことも、問題をさらに悪化させる一因になった。

末路

国鉄側も検査を担当する鷹取工場に近く、まだしも対応の容易な福知山機関区に集中配置するなどの措置も取っていたが、経年とともに故障が続発、1975年頃になると修理不能となって休車に陥る車両が続出して、とうとう「欠陥機関車」の烙印を押される羽目になった。

抜本的な解決策として、性能が安定しているDD51に置き換える措置がとられ、1978年までに全廃となった。中には新製から5年弱で廃車になった車両(35号機)まで存在した。

鉄道車両にも失敗作、あるいは諸般の事情で短命に終わった車両は少なくはないが、とりわけDD54は40輛というまとまった数が製造されながら、量産機製造開始(1968年)からわずか10年(法定耐用年数18年にさえ達していない)で全廃となったために、国鉄は国会や会計検査院はもちろん、労組からも突き上げを食らい、最後まで後味の悪い顛末となった。

なお、末期の維持費(メンテナンスコスト)はDD51の18倍に達したと言われている。初期故障を克服して性能が安定したDD51への置き換えは、ある面、合理的な判断ではあったのだが……

(余談ではあるが、この件で国鉄は償却前に余剰化した大量の車両を、民営化直前まで処分保留のまま放置状態で抱え込むことになる)

なお、「2000馬力級エンジン1基を搭載した亜幹線用ディーゼル機関車」としては後にDE50が試作されたが、電化の進展のために活躍の場を得られず、これも量産には至らなかった。民営化後のDF200にいたって、日本はようやく2000馬力級エンジンを搭載した機関車を実用に供したのである。

国鉄にとっての忌み番「54」

DD54のほか、蒸気機関車のC54(C51の改良版として登場したが、空転多発や牽引力不足で所定の性能に達せなかったうえ、主台枠の強度不足で比較的短命だった)・電気機関車のED54(「ブッフリ・ドライブ」というスイス製の駆動装置が精密すぎて、メンテナンスに手を焼いたため、性能が安定した国産機に駆逐された)といった「54」のついた形式の機関車には何かと不吉・または不運な出来事が付きまとった。成功例は、クモハ54形(旧型国電)・スロ54形(特別2等客車。後に1等車を経てグリーン車)・国鉄末期に登場したキハ54形といずれも機関車以外の車両である。

なお、DD54とC54はともに福知山機関区所属で山陰本線で運用されたという因縁めいた共通点がある。

晴れ舞台

上記のごとく欠陥、不運ばかりが目立つ当機ではあるが、お召し列車の牽引(1,3号機)や、短期間(約2年)とはいえ、寝台特急出雲』(米子機関区所属の32~37号機)の牽引にも活躍するなど、数少ない晴れの舞台にも恵まれた。

DD51と比べて全長は下回るものの、箱形の車体は実寸以上に大柄に見え、ヨーロッパ調の外観も相まって、高級客車を牽引する姿は絵になった。

また、登場当初は“無煙化”進展の有力な担い手であり、非電化区間で蒸気機関車を次々と置き換え(追放し)、鉄道ファンから「赤豚」だの「文鎮」だのと罵声を浴びたDD51と同様、“憎まれ役”に堕する可能性もあったところが(特に、播但線系統では“貴婦人”C57を追い落とした)、美麗な容姿からDD54はそこまでは憎まれず、逆にDD54のファンになるので、蒸気のファンやめますといった声もあったとかなかったとか……。

保存機と現状

現存するのは唯一、33号機のみである。特にヘッドマークなどは取り付けられていないが、『出雲』牽引グループの1輛であり、元空気溜管やヘッドマークステーなど、各所に“名残”が見られる。

同機の保存に当たっては、「欠陥機関車の証拠」を保全する目的で労組から解体を阻止されたとの説が長く唱えられていたが、さる著名な医学博士から保存の要望を受け、実現したとの説もある。

33号機は福知山駅での長期の留置のあと、大阪の交通科学博物館に搬入され、長年保存されていたが、閉館後は保管されて、改めて2016年開館の京都鉄道博物館に移管、展示さている。

再塗装も施され、保存状態は良好である。

ツキに恵まれなかったDD54だが、日本離れした容姿から現在も根強いファンがおり、Pixiv上にも比較的多くのイラストが上げられている(余談だが、鉄道擬人化のジャンルでは、その出自から日独ハーフ娘の容姿で描かれるケースが多いようだ)。

1輛とはいえ美しい姿をとどめられたのも、せめてもの幸いと言えるだろう。

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