曖昧さ回避
日本刀
長曽祢虎徹、別称は「長曽禰興里(ながそね おきさと)」といい、その前身は甲冑師であったとされる。
江戸時代、石田三成の統治した佐和山城下(現在の滋賀県彦根市)に生まれ育つが、関ヶ原の戦いにより金沢に逃れた。甲冑の名工として知られていたが、太平の世では甲冑の需要が少なかったため、齢50歳を超えて刀鍛冶に転身したという。
彼の作刀は刃の反りの浅い無骨な造形でありながら、地鉄の明るさからなる刀身の美しさや頑強さ、切れ味が高く評価された。
あまりの人気に、それなりの資産、地位を持つ者しか手に入れられず、「大名差し」と呼ばれた。
当然、刀匠の存命中から偽物も多く流通しており、「虎徹を見たら偽物と思え」というのは刀剣愛好家の間での常識とされる。
長曽祢虎徹は新選組局長・近藤勇の愛刀として広く知られ、講談では「今宵の虎徹は血に餓えている」という台詞が有名。ただし、入手の経緯については明確にされておらず、もともと農家出身の近藤がなぜこのような高級品を手に入れられたのかと疑問視する声もあり、最近では偽銘説(有名なのは源清麿が作者説)が有力視されている。
一方で、かつて東京国立博物館で刀剣室長を務めていた小笠原信夫氏が、維新後もしばらく現存していた勇の遺愛刀について「間違いなく本物だった」と証言していたという記録がある。
池田屋事件の後に近藤が家族に宛てて書いた手紙には、「他の隊士の刀は折れたり曲がったりしたけれど、自分の刀は虎徹だからか無事だった」とあり、少なくとも近藤本人は本物だと信じ満足していたようである。