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竹鶴政孝の編集履歴

2018-03-03 17:41:15 バージョン

竹鶴政孝

たけつるまさたか

広島県出身、ニッカウヰスキー創始者。

概要

広島県出身、スコットランド留学ニッカウヰスキー創始者、連続テレビ小説マッサン』の亀山政春モデル


1894年6月20日、酒造業・製塩業を営む竹鶴家に生まれる。

竹鶴家の事情で日本酒の蔵元である竹鶴酒造を継ぐように育てられ、大阪高等工業学校(現:大阪大学工学部)で酒作りを学んでいたが、洋酒に興味を持ち1916年に卒業を待たずに摂津酒造へ入社、寿屋(現:サントリー)から生産委託された赤玉ポートワインの生産に携わる。

その後摂津酒造は純国産のウイスキー生産を計画し、竹鶴をスコットランドのグラスゴー大学に留学させる。そこで知り合った女子大生の姉のジェシー・ロバータ・カウンと運命的な出会いをし、1920年に彼女の家族の反対を押し切り結婚、妻を連れて帰国、妻は愛称から竹鶴リタと改名。

しかし第一次世界大戦後の戦後恐慌によって摂津酒造はウイスキー生産の計画を断念したため、1922年に退職し、大阪の桃山中学校(現:桃山学院高等学校)で化学教師を務める。

1923年、寿屋がウイスキー生産を計画し、社長の鳥井信治郎が以前赤玉ポートワインの件で面識のある竹鶴を招聘し入社させる。竹鶴はウイスキー工場の設置場所として北海道を提案したが、鳥井から遠すぎると却下され、大阪府内で極力スコットランドに風土が似た島上郡島本村(現:三島郡島本町)に山崎蒸留所を建設し、1929年に初の国産ウイスキー「白札」を発売する。しかし当時は日本人向けに甘くした模造ウイスキーの影響で、スコッチウイスキーのように煙臭いこの商品はほとんど売れなかった。

その後も商業主義的な鳥井と意見が合わなくなってきた竹鶴は鳥井の長男に跡を任せ、1934年に寿屋を退職、悲願だった北海道でのウイスキー工場を建てるべく余市郡余市町で大日本果汁株式会社(現:ニッカウヰスキー)を旗揚げする。ただしウイスキー生産には年月がかかること、鳥井にも恩義があったこと、会社として酒造免許を取得していなかったことなどから、当面は余市の名産品である林檎を加工してリンゴジュースのみを扱っていた。やがてアップルワインやアップルブランデーも生産するようになり、1940年、満を持して「ニッカウイスキー」を発売する。

1961年、妻のリタに先立たれる。その悲しみを乗り越え翌年、「スーパーニッカ」を発売。

1967年、宮城県仙台市に宮城峡蒸留所を建設。

1979年8月29日、肺炎により死去。


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ニッカウヰスキー

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