概要
竹鶴政孝(1894年6月20日~1979年8月29日)は日本の実業家。
スコットランドへ留学して日本人で初めてスコッチウイスキーの製造方法を学び、帰国後は寿屋(現:サントリー)の山崎蒸留所を建設して初の国産ウイスキーを製造。その後独立してニッカウヰスキーを創業した。
連続テレビ小説『マッサン』(NHK)の亀山政春のモデルである。
略歴
1894年6月20日、広島県竹原町(現:竹原市)で作り酒屋と製塩業を営む竹鶴家の三男として生まれる。子供の頃から柔道を習い、体格が大きく乱暴者であった。
1907年、忠海中学に進学。柔道部主将や寮長を務め、一年下には後に総理大臣となる池田勇人がいた。
1913年、両親は兄たちが家業を嫌ったため政孝に継がせようと考え、大阪高等工業学校(現:大阪大学工学部)の醸造科へ進学させた。在学中に洋酒に興味を持つようになる。
1916年、卒業を間近に控えた3月に先輩の岩井喜一郎(岩井式アルコール連続蒸留装置の発明者)の伝手で摂津酒造(1964年、宝酒造に吸収合併)へ入社。年末の徴兵検査までの間の就業のつもりだったが、「アルコール製造は火薬製造に必要な技術」という事で徴兵検査は乙種合格で軍隊に入らずに済み、そのまま摂津酒造に勤務した。主任技師として寿屋から生産委託された赤玉ポートワインの生産に携わったが、竹鶴の製造した赤玉は滅菌が完璧で瓶が破裂する事がなく、寿屋から一目置かれることとなる。
1918年、摂津酒造は純国産ウイスキーの生産を計画し、竹鶴をスコットランドのグラスゴー大学に留学させる。竹鶴は積極的に蒸留所へ見学に出掛け、頼み込んで実習を行わせてもらった。
1920年1月8日、ジェシー・ロバータ・カウン(リタ)と結婚。竹鶴はグラスゴー大学医学部の女学生イザベラ・リリアン・カウン(リタの妹)に頼まれて弟のラムゼイ・カウンに柔道を教えたが、その縁であった。「もしあなたが望まれるなら、日本に帰るのを断念して、この国に留まってもいいと考えています」と言う竹鶴に対し、リタは「私たちはスコットランドに留まるべきではありません。マサタカさんは大きな夢に生きていらっしゃる。わたしもその夢を共に生き、お手伝いしたいのです」と答えた。11月にリタを連れて帰国。「マサタカサン」という日本語特有の同口異音は発音しにくく、リタからは「マッサン」と呼ばれた。
1922年、第一次世界大戦後の不景気によって摂津酒造のウイスキー生産計画は頓挫し、竹鶴は退職して大阪の桃山中学校(現:桃山学院高等学校)の化学教師となる。リタは英語とピアノを教えて家計を助けた。
1923年、寿屋がウイスキー生産を計画し、鳥井信治郎社長が適任者を求めてスコットランドに問い合わせたところ「スコットランドからわざわざ呼ばなくても日本には竹鶴がいるだろう」という答えが返ってきたため、招聘し入社させた。竹鶴はウイスキー工場の設置場所として北海道を提案したが、鳥井は遠すぎると却下。そのため近郊で極力スコットランドに似た場所を探し、島上郡島本村(現:三島郡島本町)に山崎蒸留所を建設した。
1929年、初の国産ウイスキー「白札」(サントリーホワイト)を発売する。しかし当時の日本人は甘くした模造ウイスキーしか知らず、煙臭いこの商品はほとんど売れなかった。
1934年、竹鶴は鳥井の長男に跡を任せて寿屋を退職。スコットランドとよく似た気候風土の余市郡余市町(北海道)でウイスキーを製造する事を決意し、大日本果汁株式会社(現:ニッカウヰスキー)を旗揚げする。ウイスキー生産には年月がかかることから、当面は余市名産の林檎を加工したリンゴジュースを販売して出荷までの時間を稼ぐことにしたのであった。出資を募る際はウイスキーの話はせず、ジュースを製造販売する会社だと説明した。
1938年、酒造免許を取得しアップルワインやアップルブランデーを生産する。
1940年、満を持して「ニッカウイスキー」を発売する。その後、戦時中のためウイスキーは統制品となった。日果工場は海軍監督工場となり、配給用のウイスキーを製造した。リタは敵国出身ということでスパイ容疑をかけられるなど苦難続きで、子供たちによく「アメリカ!アメリカ!」と囃したてられた。
1945年、敗戦後のどさくさで他社が相次いで低品質のウイスキーを発売。竹鶴はそのような製品を作ることを拒否していたが、株主らに説得され、三級ウイスキーを作る事となる。
1950年、三級ウイスキー「スペシャルブレンドウイスキー角びん」を発売。しかし竹鶴は原酒を当時の酒税法上の上限いっぱいの5%まで入れ、せめてもの抵抗をしている。
1956年、モルトウイスキーに中性スピリッツを配合した「ブラックニッカ」を発売。アサヒビールから出向した彌谷醇平が竹鶴の反対を押し切り、サントリーの「トリス」に対抗した低価格ウイスキー「丸びんウヰスキー(丸びんニッキー)」を発売させ、大ヒットする。
1959年、西宮市(兵庫県)にニッカウヰスキー西宮工場が完成。
1960年、弘前市(青森県)にニッカウヰスキー弘前工場が完成。
1961年、妻のリタが死去。享年64歳。リタの供養のため威と二人で余市蒸溜所の研究室にこもり、原酒のブレンドの試行錯誤を重ねた。
1962年、リタを偲んで作られた「スーパーニッカ」を発売。大卒初任給1万7000円の時代で3000円という高価格であった。イギリスのヒューム外相が来日し、「一人の青年が万年筆とノートでウイスキー製造技術の秘密を全部盗んでいった」と竹鶴を賞賛した。
1963年、西宮工場にカフェ式連続蒸留機を設置。カフェグレーンの製造が始まる。
1964年、「ハイニッカ」を発売。二級ウイスキーのぎりぎりのアルコール度数39%ながら価格は500円に抑えられ、爆発的に売れた。
1965年、「ブラックニッカ」がモルトウイスキーにカフェグレーンを配合した製品となった。
1967年、柏市(千葉県)にニッカウヰスキー新東京工場が完成。
1968年、「G&G」を発売。
1969年、仙台市(宮城県)にニッカウヰスキー宮城峡蒸留所を建設。
1974年、「キングスランド」を発売。
1976年、「鶴」を発売。
1979年8月29日、肺炎により死去。享年85歳。