パシフィック電鉄(パシフィック・エレクトリック、PE)とは、アメリカにかつて存在したインターアーバンである。
ここを運行される電車は、赤い車体色から「ビッグ・レッドカー」とも呼ばれた。
概要・特徴
アメリカ西海岸の都市・ロサンゼルスを中心にパサデナ、サンバナディーノ、リバーサイド、ハリウッド、ビバリーヒルズ、サンタモニカ、ロングビーチなどといった周辺都市を結んだ。
パシフィック電鉄が他のインターアーバンと一線を画していた点は、鉄道経営と沿線開発を並行して行い、高密度運転による通勤輸送を中心としたダイヤを組んでいたことなどである。この経営手法は日本の各電気鉄道も参考にしたといわれている。
もともと1890年代から存在していた各都市の路面電車・インターアーバン群を、1911年に統合したことで全盛期の路線網が完成した。この路線網は、関西圏の電車路線網(私鉄・国電含む)にも匹敵する驚異的なもので、これをパシフィック電鉄一社で経営していたのだから驚きである。やはりアメリカはスケールが違った。
しかしながら1929年の大恐慌以後、経営状態は混乱し、1930年代以後、輸送需要の低い路線から順次廃止が進んでいった。それでもロングビーチやサンペドロなどの南部地区は比較的需要も高かったことから運行が続いたが、1950年代にはフリーウェイ(高速道路)の整備が具体化、主要路線はバス転換が行われ、1953年には旅客部門を廃止してバス会社の「メトロポリタンコーチラインズ(MCL)」に譲渡してしまい、パシフィック電鉄自身はディーゼル機関車による貨物鉄道となった。
MCL、そして公営化
MCLに譲渡された電車はそれまでの赤一色から、バスと同じグリーンとイエローのツートンカラーに塗装されて運行を継続するが、もともと鉄道経営に関心の薄かったMCLは5年後に経営権をロサンゼルス都市圏交通局(LAMTA、現在のロサンゼルス群都市圏交通局・LACMTAの前身)に譲渡してしまう。交通局はこの路線の一部をモノレールに転換して高速化を図ろうとしたが、電車運転に2億ドルもの税金が投入されたことで市民からは不満も強かったし、パシフィック電鉄側からも「これ以上線路を使わないで欲しい」とクレームがついてしまったことで旅客営業は1961年に廃止となった。もっとも、電車が廃止されたあともパシフィック電鉄はディーゼル機関車牽引の貨物列車をロングビーチ線で運行していたが、1965年にはサザンパシフィック鉄道(SP)に吸収合併されてしまう。
なお、SPとなったロングビーチ線も輸送需要の低下で次第に貨物列車も走らなくなり一時廃線となってしまうのだが、1990年にはこの廃線跡を活用し、南カリフォルニア高速交通局(SCRTD)がライトレールであるブルーラインを開業させている。現在はLACMTAのライトレール路線として数多くの乗客を輸送しているが、ここを運行する電車の一部がパシフィック電鉄の塗装を身にまとって運行されている。
ウォーターフロント・レッドカー・ライン
また、サンペドロ近郊には、パシフィック電鉄を再現した保存観光鉄道として「ウォーターフロント・レッドカー・ライン」が運行されている。車輌は古い図面や博物館で野ざらしになっていた車体をもとに船舶工場で製造した500形のレプリカ(500、501)および950形を個人が買い取り1000形と同様のスタイルにしたうえでバスに改造されていた車輌を電車に復元したもの(1058)が在籍する。ロサンゼルスを訪れた鉄道ファンの方々は、是非訪れてみてはいかがだろうか。
逸話・影響など
- パシフィック電鉄を語る上で欠かせないのが、実業家のヘンリー・ハンティントンであろう。ハンティントンはSPの社長だったコリス・ハンティントンの甥で、ロス市内の路面電車を買い取り沿線の開発や不動産経営などを積極的に行った。こうしてパシフィック電鉄の基礎は出来上がっていったのである。
- ハンティントンが行った多角的経営手法は小林一三(阪急電鉄)や五島慶太(東京急行電鉄)などに影響を与え、瞬く間に日本の各私鉄へと浸透していった。現在、日本の大手電鉄会社が半ばコングロマリット化しているのはその影響であるといわれている。
- 京浜急行の赤い車体色や名古屋鉄道の車輌番号に使われているフォントなどにも影響が現れているとされる。東京都のバス会社、関東バスにいたっては、パシフィック電鉄のバスのカラーリングをそっくりそのまま真似している。