津軽丸は、国鉄青函航路で旅客と鉄道車両を輸送するために設計された鉄道連絡船。
国鉄連絡船において『津軽丸』を名乗った船は、翔鳳丸型連絡船『津軽丸(初代)』と津軽丸型連絡船『津軽丸(2代目)』が存在したがPixivでは初代を描いた作品が無いため、このページの内容も2代目のものである。
概要
国鉄初の自動化船である津軽丸型のネームシップである。
1954年に死者行方不明者1955人を出した青函連絡船 洞爺丸沈没事故や、就航から度々事故を繰り返し1955年に遂に168人の死者を出して沈没した宇高連絡船 紫雲丸の衝突事故を受けて、国鉄が安全性と設備の近代化に心血を注いで完成させた、当時としては最先端の設備を誇る鉄道連絡船である。
国鉄のみならず、他の民間船舶でも例を見ない非常に先進的な設備を多数搭載し、後の船舶に大きな影響を与えた船であった。
1964年 竣工・就役。
就役後は、他の同型船6隻と共に青函航路で旅客と鉄道車両の両方を輸送する任に就いたが、1988年の青函トンネル開通を待たずして、1982年3月に姉妹船の中で最も早く引退した。
津軽丸と同じく青函トンネル開通前に引退した津軽丸型連絡船は、第3船『松前丸』のみ。
津軽丸型車載客船
1950年代に国鉄連絡船で発生した重大事故を教訓に設計・製造された車載客船である。
洞爺丸事故
台風によって乗客乗員1155名が犠牲となった車載客船洞爺丸と、乗員の殆どが犠牲となった5隻の僚船(車両渡船)の沈没事故では、調査の結果から水密性が高い船体の必要性が明らかになった。
これは、鉄道車両を輸送する車両渡船独特の船体構造に起因するもので、特に船体中腹の車両甲板から底部にある機関室の間の水密性が充分ではなかったことが主因であった。
船舶は、艤装や貨物問わず重量物をなるべく底部に近い部位に配置した方が安定する。
一方で船体には大量の水が入らないよう気密性が求められ、開口部を極力減らし、必要な穴は船体上面に開けるなどの工夫が取られる。
車両渡船の場合は、重い鉄道車両をなるべく低く積むために、船体の喫水線よりやや上の比較的低い場所に車両甲板があり、同じ高さの場所に車両を積み降ろしするために大きな開口部を設ける必要がある。
洞爺丸事故の場合、この部分から車両甲板に大量の水が侵入し、車両甲板から機関室へ水が流れ込んで排水ポンプの動力源が停止、水を排出できなくなったために沈没に至った。
特に、沈没した船はいずれも石炭焚きの蒸気タービン船で、燃料が固形物であるために、石炭を貯める炭庫には大きな開口部必要で気密性の確保が難しく、機関室に直通しているために浸水に対して脆弱であることが問題となった。
このため、洞爺丸事故以降建造された檜山丸型や十和田丸(初代)は、機関室の気密性を高めることができるディーゼル機関を採用し、より波浪に強く安全な設計となった。
紫雲丸事故
また同じく国鉄5大事故の一つである宇高連絡船紫雲丸事故の場合、航路の不備と濃霧によって視界が悪い状態で航行した結果僚船と衝突し、沈没したというもので、冗長性が高い船体構造と適切な航路の整備と視界が悪い状態でも安全に航海ができる航法装置の整備が課題となった。
津軽丸型連絡船の誕生
これらの事故の教訓に加えて、経済発展とともに増大する輸送量に対して青函航路そのものが本州と北海道間の輸送のボトルネックとなっているという実態も浮き彫りになった。
このため、従来よりも大型、高速で安全な船として設計されたのが津軽丸型である。
津軽丸型では、檜山丸型などと同様に主機がディーゼルエンジンとなったが、大型の低速ディーゼルエンジンではなく、比較的小型の中速ディーゼルエンジンを多数搭載(川崎MAN 或いは三井B&Wの1600馬力クラスのエンジンを8基)して、上下寸法を抑えつつも従来のおよそ2倍の出力を確保した。
津軽丸型の登場で、これまで4時間30分を要していた青森〜函館間が3時間50分に短縮され、同じ時期に登場した東海道新幹線に擬えて「海の新幹線」と呼ばれた。
また国産船としては初めて、船首に船の横移動を強力に補助するサイドスラスターを装備し、港内での取り回しが非常に良好となった。
航路で高速走行できるようになった事や、離接岸での操船能力が上がったことから、従来の船では1隻あたり1日あたり2往復運航から、津軽丸型では2.5往復の運行が可能となった。津軽丸型は7隻製造されたが、津軽丸型の配備で廃船となったのは9隻であった。
姉妹船
津軽丸型車載客船はネームシップの津軽丸を筆頭に八甲田丸、松前丸、大雪丸、摩周丸、羊蹄丸、十和田丸の合計7隻が存在した。
同型船は、青森駅傍に係留されている八甲田丸と函館港に残る摩周丸の2隻を除いて、国内には現存しない。
2011年までは東京台場に羊蹄丸が保存展示されていたが、解体された。