概要
1960年8月1日生まれ。山口県出身、南陽工高時代から速球派の投手として知られ、夏の甲子園でも大きな足跡を残した。愛称は「ツネゴン」。座右の銘は『弱気は最大の敵』。
社会人野球の協和発酵から、1981年のドラフト会議で広島東洋カープに1位指名を受け入団、背番号は「15」。
1年目の1982年には先発投手として11勝をあげ、新人王に輝くが、2年目以降からは怪我に悩まされて登板機会が減少、85年オフに背番号を「14」に変更。
だが、1986年に抑え投手に転向すると、150キロを超える剛速球と縦横に曲がるカーブを武器に活躍。この年、広島はセ・リーグ制覇を果たした。
剛速球を武器に敢然と打者と勝負するその姿から「炎のストッパー」と呼ばれていた。
1990年のシーズン終了後から頭痛をはじめとする体の変調を訴えるようになり、成績も落ちていった。精密検査を受け、脳に悪性腫瘍があることが判明。
翌1991年に闘病生活に入るため、現役を引退。一時は快方に向かい、現役復帰を目指してトレーニングを再開していたものの、1992年を境に病状が悪化。1993年7月20日、32歳の若さで死去、くしくもその日はオールスター開幕日であり、セレモニー直前に訃報が流れた。
死後、広島市民球場には『津田プレート』と呼ばれるメモリアルプレートが設置され、カープの本拠地がマツダスタジアムに移転後プレートも移設された。
伝説
原辰徳は現役時代、津田との対戦で一度腕を骨折している。それは津田の剛速球が腕に当たって骨折したのではなく、津田の剛速球をバットで捉えた原が球を打ち返そうとした際、そのあまりのパワーに原の握っていたバットが吹っ飛び、原は腕を捻ってしまったというもの。原は最後の対決となった1991年4月14日、全盛期にほど遠い津田のストレートに「悲しかった」と後に語っている。(山崎武司はその球の威力を「一言で言えばミサイル」と証言している。)。