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キハ52の編集履歴2018/08/14 09:49:29 版
編集者:たづ
編集内容:韓国向け同系車の減耗など

国鉄が設計・新製した気動車で、キハ20系の暖地勾配線区向け両運転台車。

概要

車内レイアウトはキハ20とほぼ同等ながら、エンジン(0番台:DMH17C 100番台:DMH17H)を2基搭載した勾配区間向けの車両である。床下に2基のエンジンとそれぞれの補機類などを載せたため、ベースのキハ20よりも全長が1.3mほど長い。

デッキが無い暖地向けの車両だが、実際には東北地方でも運用された。

JR化に前後してキハ20系が新系列の軽快気動車に急速に置き換えられていく中で、キハ52だけは、

大型車として十分な収容力があり単行運転が可能で尚且つある程度の急勾配を単独自力登坂できる性能を持つ。……という特色が幸いし、この条件を満たす車両がほぼ皆無であったため同期や後輩が姿を消す中で比較的後年まで残ることになった。

(特にJR東日本に引き継がれたキハ52は、DMH17の老朽火災対策として新型エンジンに交換(本来350PSは出せるエンジンだが、変速機は存置したためその能力から250PSに落として使用)したため1車出力500PSの高出力車となった)

意外と需要がある筈の単行運転が可能な高出力車は、結局民営化後まで待たねばならず、例えばキハ52より後に登場したキハ40は動力性能が不足気味、強力なエンジンを乗せたキハ65キハ66・67はいずれも単行運転が出来なかった。

国鉄時代にはキハ52と同じように扱える車両はキハ53形(新造数11両)しかなく、キハ58系からわざわざ改造する有様だった。

キハ53の新造車がごく少ないのは、シートピッチが1400mmと当時の近郊電車なみに狭く最初から敬遠され、逆にキハ52(シートピッチ1470mm)の最終製造分(1965・66年)で駆け込み需要的に一気に38両も増備したからである(こういうことが起きたのは通勤ラッシュだらけの東京の価値判断で決めたためであろう)。

運用

基本的に普通列車として使用されたが、キハ53 500番台までは単行運転できる急行形車両がなかったため、キハ58系と併結して東北本線を行き、末端線区を単行で走る急行にも使用されたこともある。

スノープラウをつけ冬場の重装備に身を固めた急行「いなわしろ」の勇姿は今でも語り草である。

前述のとおり国鉄気動車としてはほぼオンリーワンとも言える特色を持った車両であったため製造年次の割に長命であったが、民営化後はJR世代の新系列気動車の増備に伴い徐々に活躍の場は狭まっていき、2010年3月をもって大糸線を最後にJR線上からは引退した。

JR西日本に最後まで残っていた3両のうちの1両(125号)をいすみ鉄道が譲り受け、2011年から運用を開始している。これは主に観光誘致目的だが、バス構造のいすみ200'形の車体劣化が激しく純粋な鉄道形車両への置き換えを必要としていた面もある。

JR時代はクリーム色+青色の国鉄旧気動車標準塗装だったが、いすみ鉄道譲渡後にクリーム色+朱色の

国鉄気動車標準塗装となり、2014年に首都圏色に塗り替えられた。

JR西日本の残りの2両は、115号(クリーム色+朱色)が津山駅構内の扇型機関庫で静態保存され、156号(首都圏色)は糸魚川市に所有権が譲られ、現在は糸魚川駅で静態保存されている。

簡易荷物車(600番台・650番台)

車両の中央にアコーディオンカーテンを設置し、車体の半分を荷室として使用できるよう改造した車両。

荷室として使う区画のクロスシートは撤去されたものの、荷物を載せないときは客室として使用できるよう代わりにロングシートが設置された。

荷物が少ないときは、運転席後部から客室扉までの間を仕切って使うことも出来た。

荷室はあくまで簡易的なもので、荷物車を表す「ニ」という形式が付けられることは無かった。

0番台から4両(600番台)、100番台から1両(650番台)が改造され、キハ52 601、602、651の3両が鳥取県の米子機関区、キハ52 603、604の2両が愛媛県の松山気動車区に配属された。

同系列車両

韓国鉄道庁→現:韓国鉄道公社

キハ52の基本設計をそのまま流用し、標準軌化・車体(横幅のみ)の大型化・低床ホームのためのステップ段数の追加という程度の差異しかない車両が、1961年以降日本の車両メーカーから納車されている。エンジンもDMH17系×2基。

ただし日本と全く違う運用方法として、2両のキハの間に1~3両の引き通し線付き客車を挟んで走行という方法が多用されたため※エンジンに常時過負荷がかかり老朽化が早く、21世紀に入る前までに大多数が廃車になっている。

※今ミャンマーに渡った日本形気動車でも多用される手法であるが、老朽化を更に進めるのがお約束になっている。 また不調に過ぎた車両はエンジン撤去した付随車としていたが、用途柄結局僚車に牽かれるのでさらに仲間を引き倒していく。

車両番号については、韓国鉄道庁に明確な車両番号規定がないため(1997年時点の規定で「車両の分類のための名称番号代は次の通りとする。1.動力車 100~9000号代 2.客車 10000号台・・」と日本の感覚では決めていないに等しい)しょっちゅう改番されており、車両が導入される前ですらも改定がある(制定当初では800番代新潟鐵工所1次・850番代同2次、900番代近畿車輌製とされていたが、実際に納車されるまでに一度改定)。1961~2年の導入分は納車時点で201~216であったが翌年以降新潟製251~296、近畿製は301~351、川崎製が401~405、日車製が501~510だがこの後ろに1975年新潟製の511・512が浦項製鉄所通勤向け(製造費は製鉄所持ちで国鉄に寄付)で付番され、さらに701~725が日車製という具合に全くのバラバラである(勿論、製造時点でメーカーごとの仕様差などない一方で、用途別仕様は通勤用(ロングシート)と一般近郊用(キハ52拡大形)に既に分化していた。そしてここまでの製造数を合計しても155両にしかならず、空き番号が無駄に多い)。

消耗は非常に多く、1987年までに事故廃車31両(衝突が多いが、火災も8両ある)・老朽廃車が1981年~96年までで27両存在している。

1974年には早くもメーカー別を廃し一般型が600番代、通勤仕様が750番代だが車検ごとに順次改番しているためこれも製造順ですらない(改番自体が1974年3月19日~1976年3月1日までの長期の移行期間がある。先述の浦項製鉄所関連の2両(511・512)も、この時点ですぐ改番となり669・670になる)。1985年頃9両ほどトンイル号(準急相当?)に改造した分を501~で分けたのち、1992年にはさらに百の位の番代枠をセマウル(KTX登場直前まで走っていたプッシュプル形内燃列車で100~800番代の番号を専有)に明け渡すため残存車全数が+9000とした。(なおこのすぐ上に485系電車をモチーフとした特急車9900系電車が存在し、ねじ込んだと言って過言でない)

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