国鉄が設計・新製した気動車で、キハ20系の暖地勾配線区向け両運転台車。
概要
車内レイアウトはキハ20とほぼ同等ながら、エンジンを2基搭載した勾配区間向けの車両である。床下に2基のエンジンとそれぞれの補機類などを載せたため、ベースのキハ20よりも全長が1.3mほど長い。
デッキが無い暖地向けの車両だが、実際には東北地方でも運用された。
特色
JR化に前後してキハ20系が新系列の軽快気動車に急速に置き換えられていく中で、キハ52だけは、
大型車として十分な収容力があり、単行運転が可能で、尚且つある程度の急勾配を単独自力登坂できる性能を持つという特色が幸いし、この条件を満たす車両が他にほぼ皆無であったため同期や後輩が姿を消す中で比較的後年まで残ることになった。
意外と需要がある筈の単行運転が可能な高出力車は、結局民営化直前まで待たねばならず、例えばキハ52より後に登場したキハ40は動力性能が不足気味、強力なエンジンを乗せたキハ65、キハ66・67はいずれも単行運転が出来なかった。
国鉄時代にはキハ52と同じように扱える車両はキハ53形(新造数11両)しかなく、キハ58系からわざわざ改造する有様だったのである。
同じく単行運転が可能な大型車体を持つ高出力の一般型気動車キハ54が登場したのは1986年。民営化の前年であったが、経営基盤が脆弱な北海道と四国に向けた41両しか製造されず、本州のキハ52は民営化後に後継車が登場するまで、少なからぬ数がそのまま残された。
キハ20との相違点
エンジンの搭載数と、それに伴う全長の違いは前述のとおりである。
これに従って、側面の窓の数(前後客室扉の戸袋窓間の窓の枚数)が、キハ20の5枚から6枚に増やされている。
便所が設置されているものの、床下はエンジン2基分の機械類が目一杯詰まっているため、それらに追いやられた水洗式便所の為の水タンクは、客室内の便所の向かい側に設置されている。このため、1エンド側の運転席後ろ側面は窓のない「のっぺらぼう」の部分がある。これはキハ20にはない特色である。
0番台
初期に製造されたグループで、キハ52 1~56の総勢56両。
エンジンは他のキハ20系と同様に垂直シリンダのDMH17C(180PS)で、エンジンを上方から点検するために客室床面に点検蓋がある。
新造時の照明は白熱灯である。
排気管が車体中央の客室内を通るため、側面から見ると、車体中央の窓の間隔がやや広い。
100番台
101~156でこれも56両である。
照明が0番台の白熱灯から蛍光灯に改められたほか、エンジンがキハ80などと同様の水平シリンダ型(横型)のDMH17Hとなった。
このエンジンは、垂直シリンダのエンジンと違ってシリンダヘッドを開けるなどの作業の為に客室床に点検蓋を設ける必要が無く、騒音や油や排気ガスの臭いが客室に入り辛いという利点があった。
一方で、垂直シリンダと比較するとピストンやシリンダの偏摩耗が起こりやすく、各部の潤滑には充分に注意を払う必要があるなど、必ずしもメリットばかりのエンジンでは無かったが、実用に支障のない程に成熟が進んでいた上、キハ80やキハ58などの他車種と機関を統一してコストを削減できる点が好ましいとされたため採用された。
機関の変更に伴って、客室床面の点検蓋が廃止されたほか、排気管の位置が車体中央から車端部に移された。
このため、0番代と比較すると側面窓の間隔が異なっており、車体中央の窓の間隔がやや広い0番台に対して、100番代は窓の間隔がほぼ均等である。
機関の変更による変化は、いすみ鉄道 キハ52 125と小湊鉄道 キハ200形を互いに乗り比べるとわかり易い。(但しキハ200は1エンジン オールロングシートで、国鉄キハ20に近い)
運用
基本的に普通列車として使用されたが、キハ53 500番台までは単行運転できる急行形車両がなかったため、キハ58系と併結して東北本線を往き、末端線区を単行で走る急行にも使用されたこともある。
スノープラウをつけ冬場の重装備に身を固めた急行「いなわしろ」の勇姿は今でも語り草である。
前述のとおり国鉄気動車としてはほぼオンリーワンとも言える特色を持った車両であったため製造年次の割に長命で、他のキハ20系気動車が民営化の前後に多く失われているのに対して、民営化後はJR北海道と東海を除いた旅客4社に継承され、以後20年以上使用された。
民営化後
JR東日本に継承された車両は、同系列のエンジンで発生した火災事故を受けて、より性能の良い新型エンジン(コマツ、新潟鐵工所、カミンズ製のいずれか)に換装された。
最も遅くまで使用された車両は磐越西線で2009年まで使用された。
JRで最後まで残った車両はJR西日本の大糸線で使用されたキハ52 115、125、156の3両で、2010年3月をもってJR線上からは引退した。
JRからの引退後
JR西日本に最後まで残っていた3両のうちの1両(125号)をいすみ鉄道が譲り受け、2011年から運用を開始している。これは主に観光誘致目的だが、バス構造のいすみ200'形の車体劣化が激しく純粋な鉄道形車両への置き換えを必要としていた面もある。
JR時代はクリーム色+青色の国鉄旧気動車標準塗装だったが、いすみ鉄道譲渡後にクリーム色+朱色の
国鉄気動車標準塗装となり、2014年に首都圏色に塗り替えられた。
JR西日本の残りの2両は、115号(クリーム色+朱色)が津山駅構内の扇型機関庫で静態保存された。
僚車の156号(首都圏色)は糸魚川市に所有権が譲られ、現在は糸魚川駅で静態保存されている。
簡易荷物車(改造車 600番台・650番台)
車両の中央にアコーディオンカーテンを設置し、車体の半分を荷室として使用できるよう改造した車両。
荷室として使う区画のクロスシートは撤去されたものの、荷物を載せないときは客室として使用できるよう代わりにロングシートが設置された。
荷物が少ないときは、運転席後部から客室扉までの間を仕切って使うことも出来た。
荷室はあくまで簡易的なもので、荷物車を表す「ニ」という形式が付けられることは無かった。
0番台から4両(600番台)、100番台から1両(650番台)が改造され、キハ52 601、602、651の3両が鳥取県の米子機関区、キハ52 603、604の2両が愛媛県の松山気動車区に配属された。
海外の同系列車両
キハ52の基本設計をそのまま流用し、標準軌化・車体(横幅のみ)の大型化・低床ホームのためのステップ段数の追加という程度の差異しかない車両が、1961年以降日本の車両メーカーから納車されている。エンジンもDMH17系×2基。
ただし日本と全く違う運用方法として、2両のキハの間に1~3両の引き通し線付き客車を挟んで走行という方法が多用されたため※エンジンに常時過負荷がかかり老朽化が早く、21世紀に入る前までに大多数が廃車になっている。
※今ミャンマーに渡った日本形気動車でも多用される手法であるが、老朽化を更に進めるのがお約束になっている。 また不調に過ぎた車両はエンジン撤去した付随車としていたが、用途柄結局僚車に牽かれるのでさらに仲間を引き倒していく。
車両番号については、韓国鉄道庁に明確な車両番号規定がないため(1997年時点の規定で「車両の分類のための名称番号代は次の通りとする。1.動力車 100~9000号代 2.客車 10000号台・・」と日本の感覚では決めていないに等しい)しょっちゅう改番されており、車両が導入される前ですらも改定がある(制定当初では800番代新潟鐵工所1次・850番代同2次、900番代近畿車輌製とされていたが、実際に納車されるまでに一度改定)。1961~2年の導入分は納車時点で201~216であったが翌年以降新潟製251~296、近畿製は301~351、川崎製が401~405、日車製が501~510だがこの後ろに1975年新潟製の511・512が浦項製鉄所通勤向け(製造費は製鉄所持ちで国鉄に寄付)で付番され、さらに701~725が日車製という具合に全くのバラバラである(勿論、製造時点でメーカーごとの仕様差などない一方で、用途別仕様は通勤用(ロングシート)と一般近郊用(キハ52拡大形)に既に分化していた。そしてここまでの製造数を合計しても155両にしかならず、空き番号が無駄に多い)。
消耗は非常に多く、1987年までに事故廃車31両(衝突が多いが、火災も8両ある)・老朽廃車が1981年~96年までで27両存在している。
1974年には早くもメーカー別を廃し一般型が600番代、通勤仕様が750番代だが車検ごとに順次改番しているためこれも製造順ですらない(改番自体が1974年3月19日~1976年3月1日までの長期の移行期間がある。先述の浦項製鉄所関連の2両(511・512)も、この時点ですぐ改番となり669・670になる)。1985年頃9両ほどトンイル号(準急相当?)に改造した分を501~で分けたのち、1992年にはさらに百の位の番代枠をセマウル(KTX登場直前まで走っていたプッシュプル形内燃列車で100~800番代の番号を専有)に明け渡すため残存車全数が+9000とした。(なおこのすぐ上に485系電車をモチーフとした特急車9900系電車が存在し、ねじ込んだと言って過言でない)