関孝和とは
- 日本の数学者 本項で解説
- クラッシュフィーバーのキャラクター メイン画がそのキャラクター
生涯
1635年~1643年の間に生まれたとされ出生地も上野国藤岡(群馬県藤岡市)と江戸(東京都)の2説ある。
若くして関家の養子となり、また、吉田光由の『塵劫記』を独学し、高度な数学を学ぶ。その後、甲斐国甲府藩(山梨県甲府市)の徳川綱重・ 徳川家宣に仕え、役人となる。家宣が6代将軍なると江戸へ行き、幕府直属の役人となる。この時、関は新しい暦を作る機会を窺っていたが渋川春海に先を越されたため実現することはなかった。
関は天元術(中国で生まれた代数問題の解き方)を深く研究し、根本的な改良を加えた。これによって和算は日本独自の発展を開始した。そしてそれを発展させ「発微算法」という必殺技みたいな本を出版する。
1702年病死。しかし彼の死後も影響力は大きく何人もの和算家が関の創始した「関流」からでた。また、西洋数学が日本に輸入されて和算が廃れた時も民衆から数学の英雄的存在と評価された。
業績
「点竄術」という筆算による代数の計算法を発明し、和算が高等数学として発展するための基礎を作った。
著名な実績では正131072角形の図形 (ほとんど円じゃねぇか)を作り、円周率が3.14159265359よりわずかに小さい*ことを発見したことである。
「ベルヌーイ数」という数列を欧米で先に発見して名前にもなっているベルヌーイより先に発見したことも有名である。
また、方程式を日本で初めて使用した。
機械いじりの才能もあった様で、江戸城にあった中国渡来のからくり時計には一定時ごとに中国人形がはしごを登って鐘をたたくという仕掛けが施されていた。しかし壊れてからはお抱えの時計師たちも誰一人手をつけられなかった。これを聞いた孝和は修理を申し出て、苦心の末、見事修理を成し遂げたという。
ちなみに、奈良の寺にある数百年間誰も解けなかった中国の『揚輝算法』という数学書をページの乱丁や答えの間違いまで完璧に修正した上で全て解いたらしい。
関連タグ
上毛カルタ・・・「和算の大家 関孝和」とある。