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堀内恒夫の編集履歴

2019/05/06 00:05:18 版

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概要

1948年1月16日生まれ。山梨県出身。

1965年のドラフトで読売ジャイアンツ(巨人)から1位指名を受け、入団。翌1966年から一軍でプレー。44回連続無失点を記録するなど、セ・リーグ記録となる開幕13連勝を含む16勝を記録高卒選手ながら最優秀防御率最高勝率沢村賞新人王タイトルを獲得。1967年からはエースナンバー「18」を背負った。

27歳で150勝を達成するなど1978年まで13年連続2桁勝利(そのうち12回がリーグ優勝)を挙げ王貞治長嶋茂雄らが活躍したV9時代のエースとして活躍。

当時阪神タイガースのエースだった江夏豊とはライバル関係で、特に節目の100勝目と150勝目は互いに同じ記録を掛けた試合での対決となり、100勝は江夏、150勝は堀内に軍配が上がった(なお、200勝目は堀内が江夏より2年早く、対ヤクルト戦だった)。

現役生活を通じて打撃にも定評があり、圧巻は1967年の対広島戦でノーヒットノーランを達成した試合で、投手では史上唯一の3打席連続本塁打を記録(投手の1試合3本塁打は史上2人目)、チームは日本プロ野球記録の6イニング連続本塁打も達成、ちなみにONはこの試合一本も本塁打を打っておらず、まさに堀内様様の記録であった。本人は4打席連続本塁打を狙うが、それが途切れた後にこの試合ノーヒットノーランを続けてたことを知らされ「じゃあしょうがないからそっちをやるか」と言ってのけた逸話がある。

また、日本シリーズでも史上唯一の投手による1試合複数本塁打(2本)を記録している。

1983年に現役引退。引退試合となった同年10月22日の対大洋ホエールズ(現在の横浜DeNAベイスターズ)戦では、巨人3点リードの8回表から登板。8回裏に回ってきた現役最終打席で投手ながら本塁打を放っている。投手としては2イニングを抑えてセーブを記録している。

なお、

引退翌年の1984年には、当時巨人の監督であったかつてのチームメイト王貞治の下で投手コーチに就任。1986年に一旦解説者や野球評論家に転身するが、1993年からは再び巨人の投手コーチに就任。(当時の監督は長嶋茂雄だった)1999年に再び野球評論家の道に戻るが、2003年オフ、前監督原辰徳の突然の監督辞任により、急遽巨人の監督に就任。しかし、テレビ中継をやめてしまうほどの成績不振のため、たった2年で監督を辞任した。

人物

小学生の時に右手人差し指をうどん製作機に挟まれ、1cmほど切断する大怪我を負っている。だが、そのハンディキャップが逆に変化球を生み出すことになる。巨人の寮では王貞治と並び、門限破りの常習犯。

政治家としての活動も行った。2010年の参議院議員選挙に出馬した(比例代表)が次点で落選。その後、2013年に繰り上げ当選の資格を得て参議院議員(自民党所属)となった。2016年の参議院議員選挙では落選している。

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