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サンフレッチェ広島の編集履歴

2019-05-27 21:11:06 バージョン

サンフレッチェ広島

さんふれっちぇひろしま

サンフレッチェ広島とは、Jリーグに所属するプロサッカークラブである。ホームタウンは広島市。

解説

創設年1938年
加盟年1991年
ホームスタジアムエディオンスタジアム
クラブカラー
マスコットサンチェ&フレッチェちゃん

広島県広島市を本拠地とするJリーグチーム。前身はマツダ(東洋工業)のサッカー部で、1965年にスタートした日本サッカーリーグに参加、同年から1968年まで4年連続優勝、という快挙を成し遂げている。

1993年のJリーグ発足時より参加のいわゆる「J1オリジナル10」の一つ。


名前の由来は戦国武将で広島出身の毛利元就の故事成語三本の矢から。

【サン+フレッチェ(イタリア語で矢を意味する)】


珍事

JSL最多の11得点勝利

1965年の日本サッカーリーグ第1回大会の第14節で、11-0でヤンマー(現在のセレッソ大阪)を圧倒した。東洋工業は同年の天皇杯で初優勝を成し遂げ、1967年、1969年にも優勝した。3度の優勝を含め、東洋工業→マツダサッカークラブ→サンフレッチェは14度決勝に進出している。

チェアマン杯を破損

1994年6月11日、磐田スタジアムで行われた試合でジュビロ磐田に勝利、サントリーシリーズ優勝を果たした。選手たちは喜びのあまりクリスタル製のチェアマン杯を頭にかぶったり振り回した。この際チェアマン杯をサポーターに見せようとすると、選手とスタッフが誤ってカップを落としてしまい、チェアマン杯が壊れた。サンフレはその場でJリーグに陳謝、新たなチェアマン杯が贈られた。これを機にチェアマン杯が金属製となった。カップの破片は大切に集められ、一旦溶かされてペンダントになった。

ユニフォーム忘れ

1995年4月1日、熊本市水前寺競技場で横浜フリューゲルスと対戦。アウェー続きで2試合分の用意をするため、2ndユニフォームを持参した。しかしフリューゲルスのホームに使われた1stユニフォームが白だったため、スタジアムに着いたスタッフが間違いに気づき、紫の1stユニフォームを届けるようにサンフレの事務所に頼んだものの間に合わず。フリューゲルスの了解を経て熊本県サッカー協会から紫のスプレーを借りたものの、すべてのユニフォームを紫に染めるのに時間が足りず、サポーターからレプリカユニフォームを借り、テープで背番号を貼って試合に臨んだ。試合はVゴールで勝利。

その後営業がスポンサーに謝罪し、Jリーグから制裁金が課された。

天皇杯で地域リーグのチームに敗れるもJ1優勝

2012年、J1首位に立ちながら、9月8日の天皇杯2回戦でリーグ得点王の佐藤寿人を擁する最強のメンバーで今治FC(四国リーグ)と対戦するも1対2で敗れた。しかし11月24日にクラブ史上初となるJ1年間総合優勝を達成した。

2013年も最終戦までもつれたが優勝を決め、連覇を達成したのだが、実は最終戦前までは、勝ち点差2で2位だった。だが最終戦で1位の横浜F・マリノスが負け、サンフレが勝ったため逆転優勝が決まった。この年の天皇杯は決勝まで進出したが、横浜F・マリノスに0対2で完封負けを喫し、東洋工業サッカー部時代を含め天皇杯決勝戦8連敗、しかもすべて完封負けとなった。

また、2013年のFIFAクラブワールドカップでは3位入賞を果たしている。


ホームスタジアム

広島広域公園陸上競技場

命名権名称「エディオンスタジアム広島」


アストラムラインで行こうとすると、相当大回りをして終点の広域公園前駅に到達するため市内中心部から時間がかかる。実は広島駅から2駅目の横川駅から山を突っ切る道路を通るバスで行かれたり、高速バスが直接停車、あるいはアストラムラインへの乗換駅に止まったり、J1で唯一駐車場が完全無料だったりメリットはあるのだが、広島市は野球場の位置の至便さと比較される。


アストラムライン・バスとも、2018年よりSuica等他の全国ICカードが使えるようになった。


広島のサッカースタジアム構想

広島が戦前からサッカーが盛んであり、1950年代以降広島市にサッカースタジアム構想が持ち上がったが、三角州で形成された狭い平野、地元財界が財政難、被爆した建物が要因で進まない。

サンフレの前身である東洋工業蹴球部も本格的なグラウンドを持っておらず、市内高校グラウンドを転々とした。国際試合や主要大会も広島市民球場で開催された。

1992年に広島アジア大会のメイン会場、サンフレのホームとして、広島広域公園陸上競技場(ビッグアーチ)が建設。その後、屋根が少ないこと、交通アクセス、カープとサンフレの試合が同じ日に行われるなどの問題が浮上した。

2002 FIFAワールドカップが日本と韓国で開催されることが決まり、開催地として広島市が立候補し、ビッグアーチを改修しようとするも、費用の問題や日韓共催により3試合しか開催できなくなるかもしれないことから、1996年に広島市は改修を見送って開催地から外れ、メディアからのバッシングを受けた。

2003年には新設案が3案、改修案が2案出されたが、いずれも没になった。中でも広島市民球場案は、2006年4月に原爆ドームから200m先に高さ45mのマンション建設が発覚し建設反対運動が活発化、結果、5月21日に広島平和記念公園と広島市中央公園が分断される計画であると評価され、没案となった。こうしてスタジアム推進プロジェクトは止まった状態になったが、2009年4月にMAZDA Zoom-Zoomスタジアムが開場したことで、10月にプロジェクトが再び立ち上がった。

いったん計画を白紙に戻し、改めて検討した結果、2013年に候補地が西区観音地区(広島西飛行場跡)、中区広島中央公園敷地内(旧広島市民球場跡地とその北側の芝生広場)、南区宇品出島地区の3つが候補に絞られつつあったが、2014年11月、旧市民球場跡地と宇品出島地区の広島みなと公園に絞られた。これは観音地区が交通アクセスの問題で没案となったこと、中央公園芝生広場が東西に長いためにピッチを南北に拡張しにくく周辺住民への騒音の影響も考えられて外されたことによるもの。

2015年7月に広島県・広島市・広島商工会議所は広島みなと公園に建設した方が優位と考えたものの、サンフレは2016年3月3日の記者会見で、旧市民球場跡地に2万5000人規模のスタジアムを建設すると発表した。これがもとで県・市・商議所とサンフレの対立が続いたが、5か月が過ぎた2016年8月10日に4社トップ会談が実現した。9月14日には一旦候補から外された中央公園自由・芝生広場を候補に入れたものの、松井一実広島市長は、団地の住民の理解を得る必要があり、騒音、観客や車の導線など検討すべきと指摘。墓町の住民から反対の声が上がり、中央公園案も実現できないかと思われたが、2019年2月6日、3回目の4者トップ会談で、建設候補地を広島中央公園自由・芝生広場に一本化することで一致した。2024年春の開業を目指すとされる。


Wikipedia - より詳細な情報


マスコット

熊の「サンチェ」と「フレッチェちゃん」が正式。さらに上記の「こやのん」。

イケクマサンチェ


こやのん

外部リンク

公式サイト

関連タグ

広田みのる(初代・スタジアムDJ<1995年から1999年まで>)

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