生涯
河内(今の大阪府)に拠点を置いた河内源氏の3代目・源義家の次男として誕生。
その強さは父親譲りで気性もかなり荒かったという。
対馬守に任じられ対馬に赴くがそこで略奪などを行ったため
大宰府の大江匡房(おおえのまさふさ)に訴えられ追討を検討され
義家が使者を送るも送った使者が義親に寝返る事態になってしまう。
そのあとは隠岐に配流されるも配所にいかず
あろうことか島を出て海を渡り本土の出雲にて反乱を起こす。
これに対し流石にフォローのしようがなくなった義家であったがそのすぐ後に死去。
その後朝廷は平正盛を派遣して討伐させ、正盛は見事に義親を討ち取った。
享年は不明。
その後の河内源氏
義親が討たれた後、弟の義忠が暗殺される。
それにより犯人とされた叔父・義綱が
佐渡に配流され、実は叔父の義光らの仕業だった等々で
河内源氏内で混乱が生じたことにより衰退し始める。
討ち取った平正盛はそのような源氏に代わって台頭し
子の忠盛や孫の平清盛による伊勢平氏の繁栄の基礎を作った。
死の疑惑
義親は反乱を起こして討伐された・・・というのが史実であるが
「武勇に優れていた義親が果たして無名の正盛に殺されるのか?」
という疑惑は当時から存在したことや
義家一派が河内という京都に近い場所や東国に影響を与えていたため
勝手のわかりにくい西国へと任じ、失敗させたという朝廷(院)の陰謀論まである。
実際、乱後20年の間、義親を騙るものが後を絶たず
名乗った人物は片っ端から討伐された。
官位や異名
官位・従五位下、左兵衛尉、対馬守
異名・悪対馬守
(この悪とは強いという意味であるが、実際に対馬で悪行を行っていた事実は否めない)
系譜
父・源義家 母・源隆長の娘
兄弟・義宗(兄) 義忠(弟) 義時(弟) など
子・義信(長男) 源為義(四男、一説に弟) など
子孫は木曾氏(異説有) 土佐の吉良氏、など
また、これを見てわかる通り
子孫は将軍家として再び権力者へと舞い戻っている。