元服と久保姫との出会い
1519年、伊達家第14代当主・伊達稙宗の長男として生まれる。1533年に足利義晴の偏諱を受けて、晴宗と名乗った。
この頃、岩城家当主・岩城重隆は伊達稙宗・相馬顕胤・田村隆顕の連合軍に対抗すべく、白河結城家当主・白河義綱の息子である白河晴綱に娘・久保姫と結婚させる約定していた。
ところが、この縁談話に顕胤が乱入して「久保姫を伊達家に貰い受けたい」と強制した。重隆は「白河家との縁談があるので無理」と反発。その結果、稙宗の鬼謀によって事態は軍事衝突寸前にまで緊迫してしまった。
1534年、結城家への輿入れは強行されたが、久保姫の容姿端麗さを見初めたが晴宗は自ら軍勢を率いて襲撃。久保姫と運命の邂逅を果たし、正室とした。
その後、久保姫との尽力もあって岩城家との同盟と晴宗の長男・伊達親隆を岩城家の養子に入れる事で窮地を救った。
天文の乱
1542年、父の稙宗が更に勢力を拡大するため、越後守護・上杉定実の養子に弟の伊達時宗丸(成実の父)を出そうとした事と、相馬顕胤に伊達領を割譲しようとした。晴宗は猛反発し、重臣の中野宗時・桑折景長らと協力して鷹狩りを終えて帰途しようとした父・稙宗を捕縛して、西山城に幽閉。実元の養子縁組を阻止した。
だが、間もなくして父・稙宗は小梁川宗朝によって西山城から救出され、さらに稙宗が奥州諸侯を糾合して晴宗と争う構えを見せたため、約6年以上にも及ぶ天文の乱が始まった。
父・稙宗の元には実元以外にも、大崎義宣や葛西晴清(いずれも晴宗の弟)に加えて相馬顕胤、田村隆顕や蘆名盛氏らも加勢した為に不利に陥った。
しかし、1547年に田村隆顕と蘆名盛氏が対立。盛氏が晴宗方に寝返った事により稙宗方からの離反者が相次ぎ、形勢は次第に逆転。また乱が飛び火した越後では長尾晴景の末弟・景虎(上杉謙信)の活躍もあって内乱は鎮められ実元入嗣案は完全に挫折し、時宗丸改め実元も降伏した。
1548年、足利義輝の仲介により、和睦が成立。6年に及ぶ乱は終結した。同時に晴宗は伊達家15代目当主に就任したのであった。
晴宗の治世
当主となった晴宗は米沢城に本拠を移すと、天文の乱により弱体化した伊達家の再建を図るべく家臣団の見直しを行った。
1553年には廃城不満から謀反を起こした懸田俊宗・義宗親子を倒す。しかし、中野宗時をはじめとする天文の乱で晴宗方の主力を担った家臣には守護不入権などの様々な特権を付与せざるを得ず、晴宗政権は宗時らを中心に運営されていく事となる。
また、晴宗は6男5女(全て正室・久保姫の子)と子供に恵まれ、それらを岩城家・二階堂家・佐竹家に送り込んで縁戚関係を結ぶことで勢力の回復に努め、1555年には奥州探題職に補任された。
江戸時代に成立する仙台藩と久保田潘の初代藩主は共に晴宗の孫であり、子孫はそれぞれの潘において上級藩士として続くことになった。
1564年には蘆名盛氏が二階堂盛義と対立し岩瀬郡に進攻すると、二階堂氏救援のために桧原を攻撃したが撃退され、1566年に盛義が降伏すると、盛氏の嫡男・盛興に四女・彦姫を嫁がせる条件で伊達・蘆名間でも和平が成立した。
更にその翌年には父・稙宗が死去すると顕胤の子・相馬盛胤が丸森城を接収し、さらに伊具郡各所を手中に収めていく。このため天文の乱以来の伊達・相馬間での抗争が再燃し、以後20年間に渡る丸森城をめぐる攻防が展開され孫の政宗の代まで熾烈な抗争を繰り広げる事となった。
1570年、息子・輝宗により中野宗時・牧野久仲親子が追放されると晴宗は引き際を悟って実権を輝宗に移譲。杉目城に閑居した。(家督を譲り隠居したのは1564年だが、隠居後もまだ実権を持っていた。)
晩年には杉目城に一門や家来衆を招いてたびたび宴会を催し、その席では孫の梵天丸が和歌を披露したという。
1578年1月、杉目城で死去した。享年59歳。
創作における伊達晴宗
Ver2.2にて参戦。計略は「吸血鬼の夜会」。神謀計略の一つ。伊達家の味方の武力を上げ、ラインに触れた敵の武力を下げる。更に敵に乱戦していると敵の兵力が徐々に下がり、味方の兵力は徐々に回復していく。妻が武力ならこちらは兵力と言ったところか。
武将風雲録より初登場。蒼天録では妻の久保姫とのイベントや天道では天文の乱終結イベントがある。(PKでは天文の乱の始まりのイベントがある。)
創造PKにて今までの顔(天下創生~創造)から若年時代の新グラフィックに差し替えられた。
武器:刀(2~3)、声:高塚正也(2) 藤本たかひろ(特殊セリフ時は宮坂俊蔵)(3Emp)
「欲しいものは力で手に入れてきた…妻も、家督もな」(3Emp特殊台詞)
2から初登場。3での特殊台詞は妻・久保姫の結婚や父・稙宗との戦いを力で制した事を呟いている。4では姫武将として久保姫が追加され、自身も特殊モブとして登場した…が特殊台詞は残念ながら省略された。