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戸次鑑連の編集履歴2020/05/20 08:30:01 版
編集者:ふーたん
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戸次鑑連(立花道雪

pixivでは道雪タグの方が多い。

概要

豊後鎧岳城主、十四代目・戸次親家の次男。

幼名は八幡丸。仮名は孫次郎。諱は他に親廉など。

剃髪後の名は麟伯軒道雪。伯耆守、伯耆入道などを称した。

大友家の加判衆のち筑前守護代を務め、吉弘鑑理(高橋紹運の父)や臼杵鑑速(道雪の継母の弟)と共に豊後三宿老と称される。

立花誾千代の父であり、立花宗茂の養父でもある。

元服後の14歳で初陣を果たし敵将を捕縛する武功を立てるなど、当時から大器の片鱗を見せていた名将。

大内義隆陶興房晴賢毛利元就隆元小早川隆景吉川元春中国勢秋月文種種実ら北九州勢との長年に亘る戦での功績が認められ、1571年に立花山城主となり立花氏を継いだが本人は宗麟のお達しもあり立花姓を名乗れず使用しなかった。龍造寺隆信に与した黒木氏の猫尾城を攻めている最中に発病し逝去した。

死の間際、自分の死後、遺骸に甲冑を着せ、柳川の方に向けてこの地に埋めよと遺言をしたが、遺体を戦地に置いてはいけないという家臣たちの判断により、戦場から離されることになった。なおこのとき敵軍は攻撃をせずに静かに見送っていたという。

家臣を大切に思い、また家臣から尊敬される人望の篤い人である。

逸話

037戦無敗、雷を斬ったなどの逸話から、「鬼道雪」「雷神」と称される。雷切丸は、立花家の至宝として今も伝わる。

  • ただし1567年の休松の戦いでは秋月種実の夜襲を受け、負けこそしなかったが弟二人を始め親族5人を一度に失う代償を払っている。
  • 陣中で病没した道雪を戦場から運ぶ際、敵方の島津軍・秋月軍の兵達は名将の喪を悼み、誰一人とて攻撃を加えるものは居なかった。
  • 主君である大友宗麟には躊躇いなく諫言をしていた。
    • 宗麟が悪戯でけしかけた鉄扇で一撃で叩き殺して説教。
    • に溺れる宗麟を嘘の宴会で誘い出して説教。
    • 耳川合戦後、宗麟に無能ぶりを手紙で説教。

など

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