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太田道灌の編集履歴

2020-09-07 19:20:12 バージョン

太田道灌

おおたどうかん

室町時代の武将。太田資清(道真)の子。諱は資長。幼名は鶴千代。

概要

扇谷上杉家の家宰(執事のこと)。

享徳の乱、長尾景春の乱などで武勇を振るい、30数回の合戦で無敗を誇った。ほぼ独力で上杉家の危機を救っており、そして江戸城を最初に築城した人物。


優れた武将、政治家、そして歌人であったが、道灌の力を恐れた主君の手によって暗殺されたという悲劇の英雄として後世に語り継がれた。


埼玉県越生町には道灌に由来する山吹伝説の逸話が残り、それを元に落語「道灌」が生まれたという。


生涯

永享4年(1432年)~文明18年(1486年)

室町時代、鎌倉公方を補佐する関東官領・扇谷上杉家に仕える家宰(家長に代わって家政を執り仕切る職責)の太田家に生まれ、元服後は名を資長とした。上杉家での分家同士による内紛や鎌倉室町幕府の対立が繰り返され、そんな中の康正2年(1456年)に資長は父から家督を相続し、主君の上杉政真と次代の定正に補佐として仕えた。

上杉家が対立する享徳の乱を起こした足利成氏との戦いに備えるため、江戸家の領地であった武蔵国豊嶋郡に城を築いた。それが後の江戸城である。河越にも築城し、相模武蔵一帯に勢力を拡大させた。この頃に出家して法名「道灌」と称したといわれる。

文明8年(1478年)に山内上杉家の長尾景春が上杉家に背いて上杉家を攻撃し、道灌は扇谷上杉家に忠義を尽くして各地を転戦。文明14年(1482年)に対立勢力同士が和議を結び、享徳の乱も景春の乱も終結し、この戦いと道灌の活躍で扇谷上杉家を上杉分家の中でも山内上杉家に匹敵するまでの勢力にまで成長させた。

太田家が絶大な力を持つまでになったため扇谷・山内双方から危険視されだし道真と道灌は謀反の噂を立てられるようになる。親子共々謀反の噂には弁明もしなかったが、文明18年7月26日(1486年8月25日)、道灌は糟谷館(上杉定正邸)に招かれたところを暗殺されてしまう。暗殺の原因や首謀者については扇谷家での内紛や下剋上を恐れた定正の陰謀、山内上杉顕定の策動など諸説ある。


人物

  • 文化人としても教養が高く、易経を学び、和歌にも精通して様々な歌を残した。ただし歌道に関しては父の方がさらに上だったとされる。
  • 後に関東開拓の功労者の一人として多くの武将武士に人気が高く、英雄として戦国時代江戸時代にも称えられ、関東各地に色々な伝説が残されている。
  • 一説には足軽による集団戦法の発案者ともされている。
  • 父・資清も優秀な人物だったが道灌はその上を行き幼少事から俊英ぶりを見せていた。しかし資清には驕漫に移ったらしく鶴千代時代から度々訓戒を与えていたがその度に道灌は切り返していた。なお、資清は道灌暗殺の二年後に逝去している。

山吹の里

道灌は父のいる越生の地を訪れる。突然の雨に遭い、道灌は蓑を借りようと農家に立ち寄った。その際、娘が出てきて何も言わず一輪の山吹の花を差し出した。

道灌は、蓑を借りようとしたのに花を出され内心腹立たしかった。後でこの話を家臣にしたところ、それは後拾遺和歌集の「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」の兼明親王の歌に掛けて、山間(やまあい)の茅葺き(かやぶき)の家であり貧しく蓑(実の)ひとつ持ち合わせがないことを奥ゆかしく答えたのだと教わった。

古歌を知らなかった己の無学を反省した道灌は、歌道に励み、後に歌人としても名高くなったという。


関連タグ

日本史 室町時代 武将 江戸城 関東

太田資正(道灌の曾孫)

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