源清麿
みなもときよまろ
江戸時代後期の刀工、または彼による同名の作品。
来歴
文化10年(1813年)、信濃国小諸藩赤岩村(現東御市)の名主山浦昌友の次男として生まれ、刀工を目指した兄真雄とともに上田藩工の河村寿隆に刀工の技を学ぶ。武士を志して真田幸貫の斡旋で江戸に上り、軍学者、剣術家でもある旗本・窪田清音の門を叩くが、のちに刀工として評価した清音の後見で、清音の屋敷内に鍛冶場を設け修行し、作刀に専念する。
天保13年(1842年)、清音の尽力により一人三両掛け百振りの刀剣講「武器講一百之一」を依頼されるが、一振り目を完成させたところで出府し、その年の暮れに長州萩に現れ2年間を過ごした。
その後、江戸に戻り、師匠である清音から「清」の文字を与えられ「清麿」と名乗った。
嘉永7年(1854年)11月14日、42歳で自害し、この世を去った。
評価
新々刀最上作
現在は新々刀である清麿の刀は同年代の刀工よりも評価が非常に高く、同じ江戸三作の水心子正秀や大慶直胤よりも高い。さらに言うとあの最上大業物として名高い長曽祢虎徹と同等の評価を受けている(ただし、物によっては虎徹よりも評価が高くなることもある)。
切れ味も鋭く清麿自身が保証するほどであり、正に実用兼美の業物である。
エピソード
・左利きのためヤスリ目の傾きが逆である。
・刀工として名高い清麿だが剣術の腕前も高く、清音の道場では代稽古もつとめていた。
・四谷に住したが、先に四谷に住んでいた固山宗次に挨拶がなかったため、果たし状を送られたと伝えられている。
・かなりの酒好きだったらしく、酒毒のために作刀ができなくなったことを悲観して自害したという説がある。