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和泉守兼定

いずみのかみかねさだ

歴代の刀工・兼定のうち、関の兼定二代目・会津兼定十一代目の2名を指す。または彼らの打った刀。前者は通称「之定」として評価も高く、後者は新撰組副長・土方歳三の愛刀としても有名。
目次 [非表示]

誘導分岐編集

  1. 室町時代美濃国刀工。「関の兼定」の二代目、通称「之定(ノサダ)」。後述。
  2. 江戸時代末期の会津藩の刀工。「会津兼定」の十一代目。後述。
  3. 土方歳三の会津兼定の差料を元ネタとした、刀剣乱舞に登場する刀剣男士。→和泉守兼定(刀剣乱舞)
  4. 土方歳三の会津兼定の差料を元ネタとした、天華百剣に登場する巫剣。→和泉守兼定(天華百剣)
  5. 細川忠興の之定の刀を元ネタとした、刀剣乱舞に登場する刀剣男士。→歌仙兼定(刀剣乱舞)
  6. 細川忠興の之定の刀を元ネタとした、天華百剣に登場する巫剣。→歌仙兼定(天華百剣)

概要編集

刀工「兼定」は14人存在するが、朝廷より官位を賜って「和泉守兼定」と名乗ることができたのは、下記に◎で示した2名のみである。


関の兼定編集

 初代(親兼定)

◎ニ代(之定/ノサダ)…1508~1511年の間に「和泉守」を拝領、「和泉守兼定」となる

 三代(疋定/ヒキサダ)


和泉守兼定 - 関の兼定 二代目編集

生没年不明。刻んだ銘の「定」の字の特徴から、通称「之定(ノサダ)」としても有名。

甲州出身。美濃へ来て初代兼定の門人になり、後に養子となった。


その刀は切れ味も良く、評価ランクの中でも最高の「最上大業物」と評価されている。

江戸時代には俗に「千両兼定」と呼ばれ、人気を誇ったという。著名作に後述の「歌仙兼定」のほか、鬼武蔵こと森長可の愛槍「人間無骨」、「九字兼定」「篠ノ雪」「立袈裟籠釣瓶」などがある。

また伊勢で駐槌したことから刀工・村正との交流もあり、合作の刀も遺されている。


戦国大名・細川忠興の佩刀もこの之定作であり、息子・忠利におもねる佞臣36人の手討ちに使ったという、血生臭い伝承を持つ。忠興は殺害した36人(一説には6人)を「三十六歌仙」になぞらえ、この刀に「歌仙兼定」という号を与えたという。

ただし細川家の御家文書にはこれらの伝承については触れられておらず、後世の創作とも、また(幕府に目をつけられない為に)あえて記さなかったとも言われている。

その拵は忠興自らが手がけたとされ、当代随一の茶人である彼の美学を体現した「歌仙拵」として高く評価された。その後江戸年間を通じて隆盛した「肥後拵」の原型の一つとなっている。

長く肥後細川家に伝来したが4代藩主・綱利の時代に家老に下賜され、その後持ち主を転々とする。

明治の末になって16代当主・細川護立により買い戻され、現在は細川家累代の文物を収める「永青文庫」(東京都文京区)に所蔵されている。


会津兼定編集

 初代(孫四郎兼定) ※ 異説あり

 二代(孫一郎兼定)

 三代(孫左衛門兼定)

 四代(入道兼定)

 五代(数右衛門兼定)

 六代(近江兼定)

 七代(治太夫兼定)

 八代(近江兼定)

 九代(与惣右衛門兼定)

 十代(業蔵兼定/後の近江兼氏)

◎十一代(兼定を継ぐ前は友弥兼元)…1863年12月に「和泉守」を拝領、「和泉守兼定」となる


※孫四郎の父・清右衛門を会津兼定の初代とする説もある。

 その場合、清右衛門が初代、孫四郎が2代…と続き、11代の友弥が12代と数えられる。


和泉守兼定 - 会津兼定 十一代目編集

本名は古川清右衛門。幼名は友弥。生没年は1837年1月3日-1903年3月28日。

新選組副長・土方歳三がこの和泉守兼定の刀を差料にしていた事でも有名。

1868年の会津戦争では会津若松城に籠城し、刀に代わり弾丸の鋳造などを行っていた。廃刀令後も依頼を受けて神社に奉納する為の刀を作刀したほか、「義和団の乱」における大使館防衛戦で勇名をとどろかせた軍人・柴五郎の為に刀を打ったと伝えられている。

1903年(明治36年)1月、陸軍省の要請で東京砲兵工廠にて日英同盟締結記念にイギリスへ献上する日本刀の鍛刀を行うものの、2ヶ月後に急死。享年67。


土方歳三の愛刀編集

会津兼定十一代目の和泉守兼定

之定作という説は司馬遼太郎の歴史小説『燃えよ剣』における描写であり、実際には之定の刀ではない。

そのうちの一振が現在土方歳三資料館に保存されている。土方歳三が亡くなる少し前に撮影された写真では、この和泉守兼定を差していることが確認できる。

銘には「慶応三年日」と刻まれており、これに従うならば土方が戦死するまでに使用されたのはたったの2年である。しかし柄糸には強く握られて摩耗した痕跡、鞘には刀傷が残っており、激戦を戦い抜いた痕跡が現在でも見られる。またかつては刀身にいくつも刃毀れが生じていたが、昭和初期に研ぎ直しされて現在の姿となっている。

近藤勇の手紙の二尺八寸、現存している二尺三寸、他にも新選組は複数の兼定を所有していたとされる。ただ、この近藤の手紙の「二尺八寸」は誇張表現だったのではないか、という説もある。

ただこの土方歳三資料館に現存する和泉守兼定は、箱館から日野まで誰がいつ届けたのかは不明であり、明確な史料は未だ発見されていない。

また、近藤の手紙が書かれたのは文久3年10月であるため、このときはまだ会津十一代兼定は和泉守を受領していない。このことから、この二尺八寸の和泉守兼定は之定こと関二代和泉守兼定だと思われるが、刀そのものが現存していないため審議は定かではない。


関連タグ編集

刀鍛冶 打刀 太刀 日本刀

信長の忍び……作中に之定が「関兼定」として登場。

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