曖昧さ回避
- 安土桃山時代の元武士の刀工。この項目で記述する。
- 1の人物によって打たれた日本刀の中でも『号』のないもの全般を指す。
- 2の中で脇差を擬人化した、ブラウザゲーム「刀剣乱舞」に登場する刀剣男士。→堀川国広(刀剣乱舞)
人物
本名は田中國廣で、俗名は田中金太郎。
生1531年(享禄4年)-没1614年5月26日(慶長19年4月18日)
新刀初期に活躍した堀川派の開祖。埋忠明寿とならび新刀の祖ともうたわれる。
日向国(現在の宮崎県)の大名・伊東家に仕える武士だったが、天正5年(1577年)に島津家の侵攻により伊東家が滅亡。主家の遺児・伊東虎千代(後の伊東マンショ、天正遣欧少年使節の一員)を伴い、豊後国(現在の大分県)へと落ち延びた。
虎千代がセミナリヨ(神学校)に保護されたのを見届けて後、諸国を放浪。山伏として修行した時期もあり、天正12年(1584年)には「太刀主日州古屋住國廣山伏之時作之」と銘の入った太刀「山伏国広」を作刀している。
天正18年(1590年)には下野国(現在の栃木県)の「足利学校」に身を寄せ、足利城主・長尾顕長の依頼により「本作長義」(山姥切)の写しを作成。これが「山姥切国広」と呼ばれ、国広第一の傑作として評価されている。更に脇差「布袋国広」を作刀、本作長義に銘を入れるなどの活動を残した。また同年には官位「信濃守」を拝領している。
長尾顕長の下では足軽大将も務め、小田原征伐の際には籠城戦に参加している。その後北条氏が降伏した後、慶長4年(1599年)頃から京都一条堀川に移住し、これによって『堀川国広』と名乗るようになった。
堀川に定住する前の刀は「天正打」・「日州打」と称され、末古刀に分類されるものが多い。
俗に「堀川物」と称される刀は堀川に定住後の作風が変化したもの、または定住後にとった門下一派が鍛刀したものを指す。
また、号のない銘国広の刀全般を指して「堀川国広」と呼ぶ。このうち土方歳三が愛用した脇差が知られる(真贋・所在不明)。(wikipedia参照)