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大久保彦左衛門

おおくぼひこざえもん

戦国時代~江戸時代前期の武将。徳川家臣。江戸幕府旗本。「天下のご意見番」とあだ名された。

プロフィール

生没年:1560年~1639年。

松平清康広忠家康の松平(徳川)三代に仕えた大久保忠員の八男。幼名は平助。諱は忠教。

兄に大久保忠世大久保忠佐らがいる。

家康・秀忠家光の徳川三代に仕えた。

概要

長篠の戦いまたは遠江・犬居城攻略戦で兄たちに従い初陣を飾る。高天神城の戦いで勇将・岡部元信を討ち名を馳せる。その後も大久保党の一員として武勇を見せ、真田昌幸との第一次上田城攻防戦では味方が崩れ立つ中、勇戦しさらに武名を上げている。武勇のみならず石川数正出奔事件の際には、忠世の代理として小諸城に入るなど信濃統治にも関与した。

豊臣時代、関東国替えで小田原城主になった長兄・忠世、甥・忠隣から相模国で3000石を与えられた。関ヶ原の役では別動隊に組み込まれ再び昌幸と相見えている。しかし、1614年に大久保長安事件で当主忠隣に連座し改易を食らう。のち家康に再び召し出され三河に領地を与えられ旗本となる。大坂の陣では旗奉行として家康本陣に近侍し戦った。

元和偃武後、60歳を過ぎてから『三河物語』を執筆する。最後は大甥・大久保忠職(忠隣の子)が大名に復帰するのを見届けたかのように没した。享年80歳。

余談

代々の将軍に憚らず直言し、また浪人を保護したり就職を斡旋するなど義侠の士としても知られた人物であった。このため庶民から人気があり特に講談においては魚屋の一心太助とのコンビで活躍している。

令和の現在でこそ意外に思えるが昭和時代末期までは誰でも知っていると言ってもいい人物であった。しかし、平成以降は時代劇の衰退もあり、信長の野望などのゲームとかにもあまり登場しなかったこともあり知名度は下がった。

信長の野望

天翔記に出たきりだったが最近になりレギュラーとして登場するようになった。天翔記では戦才以外は壊滅的な猪武者だったが、最新作の大志ではオールマイティに近いスペックを持つ。武勇は服部正成渡辺守綱の両半蔵に匹敵。さらに武勇一辺倒ではなく統率や智謀も高めな上に、政治もこなせるため大久保党の中では最も使い勝手が良い。