大久保彦左衛門
おおくぼひこざえもん
概要
長篠の戦いまたは遠江・犬居城攻略戦で兄たちに従い初陣を飾る。高天神城の戦いで勇将・岡部元信を討ち名を馳せる。その後も大久保党の一員として武勇を見せ、真田昌幸との第一次上田城攻防戦では味方が崩れ立つ中、勇戦しさらに武名を上げている。武勇のみならず石川数正出奔事件の際には、忠世の代理として小諸城に入るなど信濃統治にも関与した。
豊臣時代、関東国替えで小田原城主になった長兄・忠世、甥・忠隣から相模国で3000石を与えられた。関ヶ原の役では別動隊に組み込まれ槍奉行として再び昌幸と相見えている。しかし、1614年に大久保長安事件で当主忠隣に連座し改易を食らう。のち家康に再び召し出され三河に領地を与えられ直参旗本となる。大坂の陣では鑓奉行として家康本陣に近侍し戦った。
元和8年(1622年)頃から後述の『三河物語』を書き上げ、のち常陸国鹿島に移住。最後は大甥・大久保忠職(忠隣の子)が大名に復帰するのを見届けたかのように没した。享年80歳。
三河物語
元々は彦左衛門が子孫に対し武士の生き方を示した家訓書として書いたものであり門外不出を謳っていた。しかし、(完全版ではないが)写本が作られ一般にも出回り人気を博した。
成立したのは寛永3年(1626年)から同9年(1632年)頃とされる。
諸記録や伝聞を元に徳川(松平)氏と大久保氏のルーツに歴史や功績を記述した上・中巻、彦左衛門自身による見聞や事蹟について述べた下巻の計3巻からなる。
彦左衛門自身の不満や意見などが織り混ぜられており特に本多正信・本多正純父子への記述が悪意に満ちていることなどから老人の愚痴と切り捨てられることもある。このため同時代の資料としては松平家忠(※1)が残した『家忠日記』や松平忠明(※2)による『当代記』に比べ客観性は落ちるとされる。しかし、上田城攻防戦など参考になる記述もまた多く戦国時代末期~江戸時代前期の資料としての価値は高いとされる。
※1:深溝松平家当主。伏見城で鳥居元忠と共に討死した。
※2:奥平信昌の四男。徳川家康の養子。大坂の陣後、大坂城主などを歴任した。