概要
元は三河(現在の愛知県)の出身だといわれる。
『甲陽軍艦』によれば、その容貌は隻眼で片足が動かなかったという。
武者修行で諸国を放浪した末に武田信玄(当時は晴信)に仕官し、足軽大将として活躍。
諸国放浪で得た見識と天才的軍略で信玄を支えた。また、政治面でも実力を発揮し、優れた築城術を見せたり、分国法制定の献策をしたとも伝わる。真田幸隆とは懇意の仲だったという。
しかし、上杉謙信との川中島の戦いで討たれて戦死したという。
『甲陽軍艦』にしかその名が無い事から、長らく勘助を架空の人物と思われていたが、
一部の書状等にそれらしき人物が記載されている事が近年明らかと成り、実在していたというのが定説。
ただし、『甲陽軍艦』以外の資料に基づくなら、勘助は軍師ならぬ軍使(伝令)兼 足軽大将として活躍した人物と成り、従来のイメージとは大いに異なる。
『甲陽軍艦』自体、孫子兵法を主体とした武田軍の軍学書と考えるには、かねてからお粗末な出来という見方をされる事も多く、近年発見された武田軍の実体を記した資料と矛盾する点から、後に書かれた偽書という説も有って、実際の著者が、他ならぬ勘助の子であったと言う説もある。
甲陽五名臣(武田四天王とは別)の一人に挙げられる。他の四人は信虎の時代から活躍した前線指揮官であるのに対し、勘助だけはその用兵や築城技術を買われて晴信に登用された人物である。
戦国大戦において
「1560尾張の風雲児」から武田家武将として参戦。レアリティは最上位のSR。
計略「啄木鳥戦法」は敵の武力を下げた上で強制的に自分に向かわせる計略で、他の味方と連携することで高い殲滅力を発揮する。
伏兵・制圧・攻城と実用的な特技を3つ持ち、その全てを活かせる高い統率力10により完成された能力。
しかし2.5コストを割く武将でありながら武力6しかないので、丁寧な運用が必要になる。
群雄伝では今川家で燻っていたところを板垣信方の推挙で武田家に仕官し、武田信玄を支え続け、
自身は真田幸隆を推挙。その後は第四次川中島合戦で宇佐美定満に討たれる。
今川義元の討死に関与していたことを匂わせる発言もある。
主君武田信玄はもちろんのこと、大河ドラマの効果か諏訪姫と関わるイベントも多い。